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丸・竹・夷

2013年11月アーカイブ

 11月25日、作家・詩人の辻井喬さん(本名・堤清二)が亡くなりました。「一定期間」なんとはなしに、疑問に思っていたことがありました。  
  「宮本百合子展」が西武百貨店でよくやられていたことです。西武百貨店関係やセゾングループの代表であった辻井さんが、作家でもあり、文化関係の仕事にも意欲があってのことの反映かなと思っていました。しかし、それにしても、いささか違和感が残っていました。
 その違和感・疑問をとくカギが、「1950年12月8日」にあったことを知ったのはずいぶんあとでした。いくつかの資料でその事実を知ることになりましたが、辻井氏自身が次のように語られています。
 「じつは『宮本百合子展』をやらなければならないという、多少責任みたいなものを感じていました。というのは、宮本百合子が亡くなる前年(1950年)の12月8日に、東大キャンパスで学生反戦集会をひらこうということになり、私はその集会の責任者として、講演依頼に11月末に本郷の宮本邸に伺いました。そうしたら『どうもこの間ひいた風邪が治りきらなくて困っているのだけれど、学生さんがそれだけ一生懸命やるのだったら、行かなきゃならないわね』と引き受けてくださり、当日、とてもいい話をしていただきました。ところが、風邪をさらに悪くして明くる正月早々亡くなられてしまいました。それで責任みたいな思いをずっと持っていたわけです」(辻井喬『私の松本清張論』)。
 この本のなかには、1981年11月に開かれた「宮本百合子展」の実行委員長の作家・松本清張さんが辻井さんに「辻井君、この展覧会は君にとってノスタルジーだったんだ」と語ったことも紹介されています。松本清張さんが、なぜ実行委員長だったのか。辻井氏によれば、学生時代からの友人であった、上田耕一郎・日本共産党副委員長に相談した結果だったということです。
 この本のなかで紹介されている、松本清張さんの「宮本百合子」論も興味深いものです。そしてなにより辻井さんの「松本清張論」そのものです。これらを通じて、辻井喬さんとはどういう人なのかも新鮮につかむことができたように思います。
 辻井喬さんの追悼の思いを込めて、あらためて『私の松本清張論』を読み返しました。
 2ヵ月に一度くらいでしょうか。立ち寄る喫茶店があります。左京区、京大の近くに古くからあるクラシックの「名曲喫茶」です。1時間ほどいて出ようとした時です。そこに小柄な男性がはいってこられました。
 先ず目にとまったのは黒い厚手のコート、どこかでみた記憶があります。お顔を拝見して驚きです。益川敏英さんでした。ノーベル賞を受賞されてすぐの頃です。その黒いコートは受賞の際、スウェーデンでの街頭でのインタビューなどで羽織っておられたものです。そういえば、インタビューでは「日本に帰って何をしたいか」の問いに「クラシックを静かに聴きたい」と答えられていました。いつも休養と読書、音楽を聴くための滋賀県の別宅には、行かれる余裕もないのかな、などと勝手に想像しました。
 2008年12月のことです。ちょうど5年たちます。それから5年間、益川さんの時々の発言はできるる限り残しておくようにしています。今年の「京都9条の会」の集会でのよびかけは、会場のシルクホールで直接聞かせてもらいました。
 いま大問題になっている秘密保護法案。益川さんは、マスコミのインタビュー(「朝日」11/28付)に答えて、先の衆議院での強行採決について「意見が割れている状況で法律を作らず、国民の納得を得てからすべきです。衆院を強引に通過させたのは暴挙です」「この法案は取り下げるべきです」ときっぱり述べられています。
 そして、益川さんならではで、示されている事例に「なるほど」と思いました。
 一つは、1960年代、人工頭脳に関する研究の際、それにかかわる資料を回し読みをしていたが、突然、関連する論文が発表されなくなりました。その研究が、原子力潜水艦の水中音波探知機に関する技術に役立つとして機密になったということを聞かれたとのことでした。
 もう一つは1999年に茨城県東海村で起きた臨界事故に関して「ただ単に『安全だ、安全だ』と言い過ぎたことがとんでもない結果を招きました。何かを秘密にすることより、みんなの目に触れるようにすることこそ、安全をもたらします」。説得力のある発言です。
 いま、多くの有識者や広範な国民が「反対のコール」をあげています。11月29日には京都弁護士会主催で反対のパレードも予定されています。「一般参加も可」とのことです。青年のグループは自民党府連に抗議のアクションを展開しています。悪法廃案へ力をあわせましょう。

 選挙での躍進、議席倍増ならではです。質疑の時間は40分にわたりました。これで3回目。倉林明子参院議員の委員会質問です。11月26日の参院経済産業委員会です。インターネット中継がされました。
 1回目が福島原発の汚染水問題、2回目が消費税増税と伝統・地場産業振興、最低工賃問題。3回目の今回は、委員会にかかっている産業競争力強化法案に関する質疑です。
 これまでの2回の質問を通じて、日本共産党の井上さとし参院議員・参院国対委員長のところに他党議員から倉林参院議員について「『即戦力』やなあ」という声がよせられてきています。委員会での3回の質問、本会議の質問もおこないました。「京都の倉林ここにあり」です。
 今回の質問は、とくに中小企業と地域経済振興に焦点があてられました。 京都市中京区西新道商店街の長年のがんばりと同時に大型店の出店のなかでの困難、京都府北部与謝野町の地域循環型の経済施策の展開・・・やっぱり、京都府議、京都市議経験をもち、「現場こそ」ととりくんできた倉林参院議員ならではのリアルな質問でした。
 法案に対する批判を展開しつつ、批判だけにせず、なによりも住民と地域の要求を基本にしています。そしてそのことが軸だからこそ、「空中戦」でなく、批判も生きています。
 先の本会議質問では、いちばん大きな声で「そのとおり」とエールを送ってくれたのは、自民党の西田参院議員でした。道理のスジと現場の声、動かしがたい事実にもとづく質問には、立場をこえて共感が広がります。倉林参院議員の人柄も反映しているのかもしれません。
 夏の参院選があったのは7月21日。この日の委員会質問で4ヵ月余りです。事務所でささえる私たちの強い印象は倉林参院議員の「実力」もさることながら、倉林参院議員の「頑張り」です。
 広い京都の地域、土日はできる限り京都での活動。しかし、京都の「自宅でゆっくりして」ということはほとんどできません。東京に戻るのは、土曜か日曜の深夜です。議員宿舎にもどって「一杯ひっかけて(「お酒を『少々』です」)」から少し寝て、3時、4時から、さらに早い時は2時から質問準備という日もありました。委員会の理事としての仕事も、日本共産党の理事だからこそ、並大抵のものではありません。 
 「煙草の量もふえているのでは」と心配です。倉林参院議員からは「そんなことはほっといてくれ」との声が聞こえそうですが―。
 11月24、25日。瀬戸内さんや菅原さんの発言に思わず背筋がのびる思いがしました。
この両日、多くの新聞で秘密保護法案への厳しい批判が目につきました。
 そのなかでもとくに鮮烈な印象をうけたのが、「京都」24日付『天眼』欄の瀬戸内さんの発言です。タイトルは「足おと」。「私は1922年生まれだから」ではじまる、その文章。最後のところで「昭和16年、17年頃から、次第に生活にしのびこんできた戦争の近づく足おと・・・近頃日ごとに大きくなって、私の耳に近づいてくる。90年生きた老人にとって、80年前の過去は、遠いだけに、そのあたりの記憶は実にあざやかで確実なのである」そして「秘密保護法案などという怪しいものがまかり通っては、まさにあの不吉な戦争前の足おとがよみがえる。もしかしたら私の長生きは、そのことを今の若者にしっかり告げよというはからいの命なのだろうか」と結ばれています。
 25日午後、亀岡市で用務のあと、京都駅で夕刊各紙を買い求め、京都府委員会までの電車のなかで一読。そのなかには、共同通信の取材に応じた菅原文太さんの発言の要旨が「毎日」に掲載されていました。
 秘密保護法案の動きに「異様な感じで受けとめた。先の戦争の片りんが影絵のように透けてみえる」「そんな時代が再び来たらいけないということは、戦争をちらっとでもかじった人はみんな考えるはずなんだけど」「9条があるから戦後70年、ほぼ平和にきたんだ」。
 とくに安倍総理には手厳しい。「愛想よくほほ笑みながら、言葉巧みに美しい約束を繰り出すが、俺たちはきれいな明かりに誘導されて炎に飛び込んで死ぬガのようにはなりたくないね」。
 締めくくりに「また、不幸な時代を日本国民が迎えてしまうのか。単なる杞憂じゃなく、危ない時代になっている」と強調されています。
 府内各地で、これまでにない広がりで、「秘密保護法廃案」との運動と声が強められています。
 瀬戸内さん、菅原さんの痛切な言葉の一つひとつを正面にうけとめたいと思います。
 その記者が「新人」といわれた頃の話です。赴任地は、被ばく地・広島でした。被ばく者の方への取材もずいぶんありました。
 ある時、取材先は被ばくした94才、被ばくから60年の女性でした。その女性は原爆で当時12才の長女を亡くしています。長女は「お母ちゃん、お父ちゃん、さようなら」と言って亡くなったとのことです。
 女性からは「あきらめるしかなかったの」との言葉の繰り返しでした。取材中、その女性は一瞬、空を見上げて「あの子が最後に生きることをあきらめてくれてホッとしたの。だって、どうしてやることも出来なかった」とつぶやき、一筋の涙を流しました。
 記者は「涙をみた瞬間、何も言えなくなった」「顔を向けることができなかった」「ひざの上に置いた真っ白な取材用ノートを見つめるだけ」だった―2005年の記事にそう書かれています。
 「ヒロシマ」、その実相は語り継がれなければならない。そう思います。
 1978年、20才のキャロライン・ケネディさんが広島を訪問しています。新しく日本大使になったケネディさんです。彼女の日本に対する「親近感」のいくつかの要因のなかで「広島体験が大きかったのでは」(「毎日」11/22付。西川恵専門編集委員)との見方が新聞報道にもみられます。その時には原爆資料館と平和記念資料館の訪問だったようですが、今回、ケネディさんが再度広島を訪問するなら、被ばくと被ばく者の生の実態と声にふれてもらいたいと思います。
 日本共産党は、アメリカの基本路線である軍事的覇権主義にいささかの甘い見方ももっていません。同時に、東南アジアや中南米をはじめ、「国連憲章にもとづく平和の国際秩序」「紛争の平和解決」を求める動きの広がりのなかで、アメリカ自身が「外交交渉による解決」を一つの現実的選択肢とする動きも生まれています。安倍内閣の侵略戦争を肯定する歴史観にたいし、彼らが最大のよりどころとしているアメリカからも批判が起き、アメリカのアジア戦略とも軋轢を生むようにもなってきています。重要な注目すべき動きです。
 「ヒロシマ」とその実相は「核兵器のない世界」へ、消えることのない、そして消してはならない「松明」のように思います。キャロライン・ケネディさんが「ヒロシマ」にどう向き合うのか、注目したいと思います。
 1年ほど前です。京都駅の八条口です。一見して仕立てのよさそうな濃紺の背広に身をつつみ、背筋をピンと伸ばして歩く人を見かけました。「矍鑠(かくしゃく)」という言葉がぴったりでした。官房長官、自民党幹事長を歴任した野中広務さんでした。
  いま、野中さんの兵庫県保険医協会の講演とその講演を報道した「しんぶん赤旗」日曜版の記事が大きな話題になってます。ネット上でも大反響です。秘密保護法の強行の動きにふれて「昔の『大政翼賛会』のようです」と批判をされています。先の『時事放談』というテレビ番組での発言に続く発言です。
  野中さんの発言は、4年前にも大きな話題になりました。マスコミでも「27日付の『しんぶん赤旗』に、目を見開いた人もいるかもしれない」(「朝日」2009年6月30日付夕刊」と注目されました。2009年6月27日付「しんぶん赤旗」のインタビュー記事です。記事は、1面から2面に続き、約300行にものぼっています。
 「『宿敵』だったあなた方(「赤旗」)に私の思いを語るのも、いまの時代が、そうさせるのだと思います」。野中さんはインタビュー冒頭、こうのべられています。京都のたたかい、選挙戦にとって、野中さんはまさに「宿敵」でした。この野中さんが「しんぶん赤旗」に登場されたことに、私たちも野中さん同様、「時代の変化」を痛感したものでした。
 野中さんは1997年4月、安保条約の実施に伴う土地使用にかんする特別委員長の報告のなかで「この法律が沖縄を軍靴でふみにじる結果にならぬように。・・・国会の審議が再び大政翼賛会的にならないよう、若い人にお願いしたい」と自らの思いをつけくわえ、この発言は議事録から削除になっています。そして2001年10月、衆院本会議にテロ特措法案の採決がかかった時、野中さんは退場、棄権しています。
 インタビューでは、その時のことを振り返って「正直いって僕はむなしさを感じました。自民党は戦争が好きな政党になってしまった。それこそ大政翼賛会時代にもどってしまった」とのべられています。インタビューでさらに「戦争に荷担しない道」にこめる自らの思いをのべられています。
  インタビューの最後は、「そのための種を蒔(ま)いていく使命がわれわれにはあるんじゃないかと思っています」と結ばれています。
 野中さんのこのインタビュー。歴史に残る発言だと思います。是非一読を願いたいものです。

 「劣化」-少し難しい言葉ですが、手元の辞書では「時がたつにつれて、品質・性能がおちること」とあります。「活力」ー同じく辞書では「活動するための力」とあります。いわば「品質・性能」がおち、「活力」がなくなることを「劣化」と言っていいのかも知れません。
 漢字の勉強をしようというのではありません。政党の「劣化」と「活力」についてです。
 「秘密保護法案は問題が多すぎる。廃案にして出直すべきだ」「故・梶山静六氏や野中広務氏、少し年下の加藤紘一氏や河野洋平氏のような面々が自民党で活躍していたら、こんな法案が提出されることはなかったのではないか。秘密保護の法案を作るにしても、歯止めをめぐって侃々諤々の議論が党内で巻き起こっていたに違いない。この法案は政権政党としての自民党の劣化を映し出ている」。「朝日」の星浩・特別編集委員のコラム(11/17付)の一節です。 
  古賀誠・元自民党幹事長が改憲問題で「しんぶん赤旗」に登場した時にも同じことが論議となりました。星氏のコラムが掲載されたその日の早朝のTBS系の番組『時事放談』では、野中、古賀両氏が登場、秘密保護法批判を展開しています。安倍暴走の一歩一歩が自民党の劣化を進行させ、「弔いの鐘」をならしているということでしょう。
  自民党なりに活力のあった時代もありました。
 「70年代の国会は、最近の国会と比べると、はるかに活力に満ちていました」「自民党の側も・・・国会論戦にのぞむ態度も70年代の首相たちは、最近の人にくらべて、ずっと真剣でした」(新潮社刊『私の戦後60年』)。
 「歴代首相との白熱論議ー70年代の国会」「70年代の首相たちには、共産党の質問でも、大事だと思えば、真剣に耳を傾け、対応する姿勢があったし、質問後も私の席にきて『今日はやられた』『あの質問はよかった』と感想を述べたりしたものです。最近の国会にはそうした雰囲気は感じられません」(中央公論新社刊『時代の証言』)。
 国会議員時代、18人の総理と論戦を展開した不破哲三さん(日本共産党・元議長)ならではの実感です。
  京都では、自ら29年にわたって掲げてきた「活力」という言葉を団体名から削除した団体があります。京都府知事選挙での自民党・オール与党陣営の政治団体・「活力京都」の会です。2010年2月10日のことでした。自民党のなかには「活力」という名前の復活-「昔の名前」を望む声もあるようです。
 あれから4年近く、今回の京都府知事選挙を前に、全国で自民党推薦やオール与党首長の敗北や辛勝が相次いでいます。京都府知事選挙をめぐって、現職与党陣営はどんな選挙体制を組むのか、四苦八苦のようです。ここにも大義がないからこその「政党の劣化」がすすんでいます。
 「共産党。古都にそだった革新」のタイトルで、京都での日本共産党の姿と活動に焦点をあてた連載がおこなわれました。93年1月から94年3月におよび計10回。毎回京都版の3分の1程度をしめ、10回分全体で1万字近いものになりました。「読売」新聞の企画でした。一般新聞の企画としてはたいへんユニークで異例のものでした。毎回、日本共産党員が登場し、これまであまり扱われなかった活動の現場も紹介されました。大変話題になりました。その後、この連載は講談社から発行された単行本に収録されています。
 この連載の最終回では、小選挙区制度と2大政党づくりの動きがふれられ、「政界再編、選挙制度改革論が高まる中、〝共産党が強い京都〟は岐路に立たされている」が結びでした。この最終回では、インタビューに答えて、市田京都府委員長(当時。現中央委員会書記局長・参院議員)が「2大政党制では、看板が違っても同じ方向にいってしまう」「ソ連、東欧圏の崩壊や体制選択論攻撃の中でも、党は前進した。正しいことをやっている限り必ず多数派になる時が来る」とのべています。
 そして小選挙区制の導入、2000年代以降のいっそう本格的な「2大政党づくり」・・・「下りのエスカレーターを必死にかけあがるような」(志位委員長)時期が一定「長期」に続きました。「『2大政党による政権選択論』の大キャンペーンは、わが党排除の猛烈な逆風をもたらし」「わが党は国政選挙で繰り返しの後退・停滞を強いられ」(日本共産党第26回党大会決議案)ました。正直たいへんでした。
  しかし、この流れはやはり長続きはしませんでした。先の参院選で日本共産党は明確な躍進を遂げることができました。いま、新聞紙上でも「自共対決」「自共対決時代」という言葉がおどるようになってきています。
 日本共産党の路線の正しさともに、自前の組織をもち、党員一人一人の国民の苦難軽減と社会変革へのひたむきさ、ならばこそだと思います。
 ここ数日、寒風がふいています。昨日も今日も、そして明日も、府内、全国津々浦々で、悴んだ手で、一軒一軒、「しんぶん赤旗」が届けられています。そして「しんぶん赤旗」を広げる活動が展開されています。
 「読売」連載ではその2回目に「赤旗掲げ『陣地』を広げる」とのタイトルでこの活動が紹介されています。そこに、右京区西京極支部といっしょに購読をひろげる活動にとりくんでいる粟倉恵子さんという女性が登場しています。その日は60軒まわって15人の読者がふえ、読売新聞記者に「すごいでしょう」と語った粟倉さんの一言も紹介されています。粟倉さんは当時西地区委員会の専従勤務員でした。その後、京都府委員会に勤務、女性部長も歴任。府委員会を退職されたあとも元気に活動しています。先日は倉林参院議員の初質問に「これは行かなあかん」と国会までかけつけました。
 寒さの急な到来のなか、気がつけば、鴨川沿いも色づいています。府内各地も「紅葉」に入ります。京都市内でも府内各地でも微妙に時期が異なります。そんな時、一番の「紅葉博士」はタクシードライバーの人たちではないでしょうか。先日も事務所(丸太町新町)から左京区の病院に向かう際、短い時間でしたが、ひとしきり「解説」がありました。実に見事です。
 川端通りから今出川通りにはいったところで、「ところで景気は」「悪いなりに一応底にはきているのですか」と話をむけました。ドライバーの方からでてきた言葉は「もう底かなと思っていたら、実は地下1階、地下2階がありました」と笑えない話になりました。「構造改革」「規制緩和」路線の爪跡がここにもあられています。
 「貧困の背景は明らかです。決して自己責任に帰せられるようなものではありません」「一握りの大企業が多くの富を独占し、大部分の国民はその恩恵にはほとんど浴することができないでいること」「この大企業の横暴を規制せず、反対に手助けしてきた政治のありかたからきていることは明らかです」。その通りです。11月11日、2014年4月の京都府知事選への出馬を表明された尾崎望医師の「決意」のなかの一節です。
 ほんとうにいい人が決意して下さったと思います。ベトナムでの医療活動の経験のせいでしょうか。国民から「ホーおじさん」と親しまれたベトナムの「建国の父」・ホーチミン大統領の雰囲気ににたところがあります。
 もう一つ嬉しい話があります。尾崎さんが訴えられる11月19日の集いに、第1びわこ学園の元園長の高谷清さんが登場されるとのことです。「この人が推す人なら」と思います。びわこ学園には10年ほど、2ヵ月に1~2回程度通いました。検査の時など、相談にのってもらっていたのが、高谷さんでした。物腰静かでそれでいて骨のある方だと感じました。ずいぶんお世話になりました。園長をおりられた後も精力的に活動され、出版された「岩波新書」の本にもずいぶん感心させられました。
 11月19日の集いがおこなわれる「みやこめっせ」周辺はまさに「紅葉」。「紅葉の秋」から「底冷えの冬」、そして「桜舞う春」へ―4年に1度の京都を揺るがす、全国注目の「京都府知事選の季節」です。
 歌手・島倉千代子さんの死去にあわせたように、青函トンネル内の「竜飛海底駅」の廃止セレモニー(廃止自体は2014年3月)が11月10日に行われました。そのことを報道するテレビでは、「竜飛」という地名を一躍有名にした「津軽海峡・冬景色」が流されています。
 歌っているのは石川さゆりさん。「杉下右京」氏と同様、「細かいところが気になる」のが私の悪い癖。資料をみてみました。石川さゆりさんが歌手の道を選んだきっかけは、小学校1年の時、島倉千代子さんの歌謡ショーをみたことだったのだそうです。小学校5年10才の時、歌手をめざして横浜に移住です。石川さんの郷里は彼女の歌にある北海道や北陸でなく、九州だったのも意外でした。全くの偶然ですが、島倉千代子さんと石川さゆりさんのNHKの紅白歌合戦への出場回数はどちらも35回。金銭トラブルに巻き込まれ、多額の借金を背負うことになったのも共通しています。
 脱線しましたが、ここで「島倉千代子・石川さゆり」論をのべるつもりはありません。ふれたいのは「竜飛」という地名の記憶です。
 当時、日本共産党は躍進の流れのなかで、夏休みなどの時期に、「人民大学」という、国民に開かれた学校を開催していました。時々の政治課題にたいする日本共産党の主張や政策、活動にとどまらず、党の綱領路線、自主独立の立場、理念問題など「丸ごと日本共産党を知る」、まとまった講演がおこなわれました。党員だけでなく、広く参加がよびかけられていました。
 その年は北海道・網走での開催でした。京都から友人数人で日本海まわりで汽車で現地に向かいました。京都を朝出発、現地についたのは、翌日の午後1時すぎ、30時間かかりました。 汽車のなかで「退屈しのぎ」の話題の一つが向かおうとする北海道の各地の地名でした。「なじみのない」「読み慣れない」「知らないと読めない」地名が少なくありません。その中の一つが「竜飛」でした。「竜飛」は北海道でなく青森の北端ですが、「こんな地名もあるのか」と印象に残りました。
 それから数年後の1977年、「津軽海峡・冬景色」が大ブレイク、「竜飛」という地名は忘れることのない記憶になりました。                       
 当時、日本共産党の第11回党大会、第12回党大会では「民主連合政府をつくろう」と力強くよびかけられ、全党はこの旗に励まされ、勇躍がんばりました。いま日本共産党は来年1月に党大会を予定し、大会に提案される決議案ではあらためて「21世紀の早い時期に民主連合政府」という目標をかかげています。そして次の衆議院選挙や参議院選挙を、この目標の「展望をきりひらく」選挙にしようとよびかけ、統一戦線のあり方についての問題提起、50万の党の実現もかかげています。
 歴史はジグザグを繰り返しながら、確実に前進する―このことを示す党大会にしたいところです。
 グループが存在していたのはほんの10年間。グループが事実上解散してからすでに43年。グループの中心であったジョン・レノン(John Lennon)が凶弾に倒れてからでも33年がたっています。
 この数日、71才となったポール・マッカートニー(Paul McCartney)の日本公演が、連日、新聞各紙に大きく報道されています。  
  この2人が生まれたのは、1940年、42年です。マルクス、エンゲルスが生まれてから約120年後です。マルクス、エンゲルスの思想と理論は、「妖怪が徘徊」するかのように、その後の世界に大きな影響をあたえてきました。性格は異なりますが、ビートルズ(BEATLES)は1960年代以降、20世紀から21世紀にわたって、いまなお多くの人々の心をとらえています。
 「過去千年間でもっとも偉大な思想家は誰だと思うか」とのイギリスのアンケート調査(国営放BBC)で、ダントツの第1位はマルクス、2位はアインシュタイン、3位はニュートン、4位はダーウィンでした。設問をかえて「影響をうけた音楽家」という問いなら、おそらく、ビートルズがクラシックの大作曲家と肩をならべたのではないでしょうか。
 「受験戦争」という言葉が生まれた高校時代、音楽をききながらの「ながら族」という言葉が誕生したのもこの頃だと思います。耳元には常にビートルズの曲が流れていました。大学紛争の時期には、会議の準備や学習は、もっぱらビートルズの曲を流している喫茶店でした。卒業・就職、その後党の勤務員になってからも、ビートルズの曲だけを流す「専門店」をみつけ、2~3ヵ月に一度はそこに通っていました。
  この間の原発ゼロの運動のなかで、グループ解散後のジョン・レノンのオリジナル曲「イマジン」が広がったのも嬉しいことです。この「イマジン」や、60年代末の「へイ・ジュード」、「サムシング」、「レット・イット・ビー」などはいつ聞いてもほんとうに「名曲」だと思います。府委員会の勤務員のKさんは大のクラシックファン。車を選ぶ第1の基準は車内の音響だというほどです。その車にクラシックの名曲とともにビートルズの曲をアレンジしたCDがおいてあるのも、その音楽性ならばこそでしょう。
 同時に、体が反応するのは、60年代前半の「ラブ・ミー・ドゥ」「プリーズ・プリーズ・ミー」「抱きしめたい」「キャント・バイ・ミー・ラブ」「アイー・フィール・ファイン」「ヘルプ」などです。高校時代の体感が、いまだに体と心に染みついているからだと思います。
 60年代から70年代にかけて、日本共産党は大きな躍進の流れをつくりだしました。「第1の躍進の時期」と言っています。そしていま、参議院選挙の躍進を力に「第3の躍進」の流れを切開こうとよびかけています。来年1月には党大会が予定されています。テレビに流れた曲をききながら、党と自らの歩みを振り返るひとときになりました。
 茂木敏充・経済産業大臣。東京大学卒業後、丸紅、読売新聞に勤務、ハーバード大学留学をへて、マッキーンゼー・アンド・カンパニーに勤務。後に日本新党から総選挙に出馬、無所属をへて、自民党に入り、現在衆院議員7期、自民党政調会長も歴任しています。安倍政権の中心閣僚、なかなかの相手です。
 倉林明子参院議員にとってはこの日で2回目の論戦。11月15日参議院経済産業委員会です。
 この日の焦点のひとつは織物業などにかかわる「最低工賃」の問題でした。「最低工賃」は、家内労働法という法律で「最低工賃は、最低賃金との均衡を考慮して定めなければならない」とされています。ところが、例えば、京都・丹後では12年間すえおいたままで、この地域の工賃は実際には最低賃金(時給773円)を大きくしたまわる200円~300円程度(時間あたり)におちこんでいます。
 倉林参院議員は日本有数の産地である丹後の現在の生産が、1998年比で生産高も生産者数も実に15%におちこんでいるという実態を示しつつ、迫りました。
 「織物業にどれだけの認識と思いがあるのか」。茂木大臣は最初にふれたような経歴の人物だけにそんな先入観がありました。しかし、茂木大臣の出身は栃木県、高校は足利高校です。織物の産地の実態を知らないわけはありません。
 倉林議員の実態にもとづく追及に、茂木大臣は「業界はたいへん厳しいと認識している」といわざるをえませんでした。そして倉林議員の「私はあなたとケンカしようと思っているのではない」という殺し文句に、「最低工賃の問題については検討させていただく」と表明するにいたりました。固い扉をあける第1歩となる質問、画期的といえるものです。
 茂木大臣は、倉林議員をかなり意識している節があります。1回目の委員会では茂木大臣から「(倉林)議員は福島西会津のご出身で」とエールがありました。2回の論戦を通じて、茂木大臣に倉林議員はどう映ったのか、興味深いところです。
 今後、倉林・茂木論戦は参議院経済産業委員会を飾る、熱い焦点になる予感がします。「自共対決国会」(「毎日」)ならではの様相だと思います。日本共産党は参院選での躍進で参議院の全委員会に委員を配置できるようになりました。全委員会で日本共産党議員の白熱した論戦が展開されていきます。国会が変わりつつあります。
 「現在は使われなくなった言葉」を「死語」といいます。時代の変遷と時の流れのなかで「使われなくなった」言葉とともに、社会、そして民主主義、人権の発展のなかで「使うべきでない」言葉として「使われなくなった」言葉もあります。
 いま、問題としたいのは後者です。「思想犯」という言葉があります。ある特定の思想をもつこと自体を「犯罪」とみなし、処罰するというものです。これが、民主主義、思想・信条の自由の立場と180度異なることは、誰がみても明らかです。この言葉をきいて、戦前の治安維持法を想起するという人もおそらく少なくないでしょう。現行憲法のもとで「死語」になっていくべき性格をもった言葉であり、戦後68年、実際そうなってきていました。
 民主党から維新の会に鞍替えした豊田貴志府議が府議会の委員会の席上で、「君が代」問題をめぐって、その強制に反対する教員について「思想犯」だと非難をしました。
 ここには、教員の思想・信条の自由を侵す問題とともに、特定の思想をもつこと自体を「思想犯」として犯罪扱いすることについて豊田府議がどう考えているのか、ということが問われています。
 単なる「言葉尻」の問題ではないのです。発言の流れをみる限り、肯定的、その立場からの発言です。驚くべき時代錯誤の発言というべきものでしょう。
 驚くべきはそれだけではありませんでした。この発言が委員会で問題となり、その扱いはどうなるのか、注目をしていました。「発言は取り消しになるのでは」とも見通しもありました。しかし、日本共産党を除く各党がこの発言を容認、問題発言はそのままとなりました。
 京都維新の会は2015年のいっせい地方選挙にむけて、京都府会議員選挙、京都市会議員選挙の全区に立候補する方針を発表しています。
 「『思想犯』というような言葉を吐く人物が、公職にあることを、私たちは世界の民主主義世論に対して恥ずかしく思わざるをえません」。同志社大学名誉教授の望田幸男さんが「京都民報」に寄せられたコメントの一部です。ほんとうにそう思います。「死語」を蘇らせてはなりません。

① その日は明るい着物姿です。浅井寿子さんです。倉林参院議員の京都秘書です。「浅井寿子」の名前を正しく読んでもらうよう、名刺には「Azai Hisako」とうってあります。倉林議員が京都選挙区選出であることから、各種の行事などの案内がひっきりなしです。倉林議員が国会用務などで出席できないことも多々あります。そんな時には、浅井秘書ができる限り出席をしています。その日は「古典の日」の記念式典への出席でした。

② 「古典」には、時代や時間をこえて、人々を納得させる「よさ」があります。そのなかで忘れてほしくないのが「古典落語」です。
 経済評論家としてその発言が注目を集めている浜・同志社大学教授が11/3付「京都」で「落語の世界が我々に貴重な教訓を与えてくれている」として「紙入れ」「天狗裁き」という演目の一部を紹介して秘密保護法批判を展開されていたことはたいへん新鮮でした。、
  以前に日本共産党書記局長で衆院議員を務められていた金子満広さん。「演説とは『説』を『演』じることだ」とインタビューなどに答えられていたことを覚えています。寄席にも足を運ばれていたとのことです。
  現在の書記局長・参院議員の市田さん。市田さんの演説、訴えが、「わかりやすい」「自分たちの気持ちにピッタリ」という声をよく聞きます。書記局長としての、国会議員としての長年の経験、蓄積とともに、市田さんならではの人間味ならばこそだと思います。
  市田さんの演説や講演では、その時々の政治問題を語るとともに、1年前、2年前、あるいは5年前にもされていた話がでてくることがあります。しかし、聴衆は前にきいていても、やっぱりそこにくると「拍手」はされるし、「笑い」もでます。「古典落語」のようなものだと言った人があります。確かにそのとおりかもしれません。

③  いま、静かなブームになって広がっているDVDがあります。市田さんが語りかけるー通称「市田DVD」です。市田さんはいま、全国各地の集いで、日本共産党を語り、多くの人に入党を訴えています。なにより、日本共産党への疑問や躊躇にかみあって語りかけられる内容に大きな反応があります。各地で5人、10人と入党者が広がっています。
  京都にも是非きてもらおうとの希望がずいぶん寄せられてきています。しかし、市田さんの日程はもう年末までびっしり。なかなか日がとれませんでしたが、やっと日程が決まりました。遅くなってすみません。12月22日の日曜日、午後2時から、会場は宇治市の生涯学習センターです。
ぜひ一度、足をはこんでいただきたいと思います。

  「三題噺」ー辞書によれば「3つの題目をその場でつづりあわせて」話にするとあります。以上、このコーナーとしてはいささか長くなりましたが、「丸・竹・夷」流「三題噺」でした。
 NO・537号で久美浜の橋本京丹後市会議員のことを紹介しました。京都の北端に「橋本さん」がいる一方、京都の南端にも「橋本さん」がいます。南山城村の村会議員の橋本洋一さんです。  いずれも一期目の「新人」議員です。南山城村の橋本さんは、村長を1期経験されています。教育一筋で校長もつとめあげられました。いわば「政治経験」「行政経験」ないなかでの村長就任。それだけにご苦労も多かったと思います。村長時代、何度かお宅を訪問した際も、疲労が重なり口数も少なくなっておられた時もありました。
  退任後、日本共産党の支部の一員として地域活動に熱心にとりくんでこられました。「誠実」「真面目」「人の話をよく聞いてくれる」「それでいて肝心なところは筋をとおす」ー多くの人の評価はほぼ共通しています。支部の会議を大事にし、よく論議してみんなで決めることを大切にされてました。健康も回復される中、村会議員の話がでてきました。新しい候補者をつくる努力もされがら、最後はみんなのたっての要請にこたえての出馬の決意、そして当選・橋本村会議員の誕生となりました。
 ほんとうに頭の下がる思いです。北端・久美浜の橋本さんといい、南端・南山城の橋本さんといい、そこに、日本共産党の「真骨頂」、その一つの姿を見る思いがします。
  京都府内に日本共産党の地方議員は現在106名。よく「十人十色」といいますが、106人一人一人それぞれに、持ち味、個性、苦労と喜び、悲しみと怒りがあります。それぞれの足跡をふりかえると、そこに106通りの道ができています。決して平坦ではないでしょう。中には起伏の激しい道もあったのではないかと思います。
 ロシアの革命家・レーニンはロシアの大通りになぞらえて、革命運動は、なんの障害もない1本道を走るようなものではないとの言葉を残しています。マルクスにも「平坦でない」ことを強調した言葉があります。
 日本の場合はいっそうの複雑さと多様性、そして新しい可能性や条件をともなうでしょう。106人の地方議員の人たちの一歩、一歩がそのことを体現、示しています。
  日本共産党は京都で70年代から、ほぼ年1回、京都の地方議員が一同に会する議員研究集会を開催してきました。今年は11月16日、17日です。回を重ねて36回目です。
 学習や会議の意思統一とともに、お一人お一人の、その人となりに思いをよせるのも「百薬」。連帯感を強めてくれます。
 長く久美浜町議をつとめられ、久美浜の党の「顔」のお一人であった橋本信一さんが10月29日なくなられました。88才でした。久美浜の党は、町議会で最高時8名の議員をしめ、毎回の町長選挙でも大接戦を繰り返し、関電が久美浜に予定した原発計画を、町民とともに数十年にわたるたたかいで中止においこみました。誇るべき歴史と伝統をもつ党組織です。
  何度となくお会いしたことがあります。この前の衆院選を前にした決起集会で、司会の人の声が小さいと、座席から「元気がないぞ。勝つ気やったらもっとちゃんとやれ」という声をあげるほどお元気なように見えました。
 最近のことでいちばん印象に残っているのは、昨年の5月27日のことです。この日、京都の大会にあたる「府党会議」が亀岡でおこなわれました。橋本さんは、息子さんの奥さんとともに代議員として出席。息子さんの奥さんとは京丹後市議の橋本まり子さんです。高齢の父親とよりそう息子の嫁。お二人の姿はたいへんほほえましいものがありました。この日は橋本まり子さんは新人議員ながら千名ほどの参加者を前に、気負いなく、さわやかに発言。橋本信一さんの、もともと細い目をいっそう細めた目が印象に残っています。
  現職の教員であった橋本まり子さんに市会議員選挙立候補の決意を固めていただくために3度、4度と峰山に足を運びました。小さい頃貧乏で、お母さんからいつも「灯油代がもったいないから勉強せんと早く寝な」といわれました。父親の葬式の時、友だちがくるのが恥ずかしかったと言います。その理由は「家がボロボロだったから」。そんな中、成績は中学でも高校でも大学でもずっと一番。中学校では学校はじめての女性の生徒会長に。その時の公約は「強い生徒会」。教師時代は、常に子どもたちによりそった教師になろうとがんばりました。そんな人だけにどうしても決意してもらいたいと話にも熱がはいりました。
 途中で内緒で橋本信一さんに相談の電話をかけました。橋本信一さんからは「決意してくれるんじゃないか」「当選したら立派な議員になると思う」との感触を伝えてもらいました。その返事どおり、橋本まり子さんは決意してくれ、この日も橋本信一さんの見立てどおりの「立派な」発言をしてくれました。あの時、橋本信一さんはどんな思いで発言を聞かれていたのかと思うと胸が熱くなります。
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