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丸・竹・夷

(552)そのカギは「1950年12月8日」にありました。

 11月25日、作家・詩人の辻井喬さん(本名・堤清二)が亡くなりました。「一定期間」なんとはなしに、疑問に思っていたことがありました。  
  「宮本百合子展」が西武百貨店でよくやられていたことです。西武百貨店関係やセゾングループの代表であった辻井さんが、作家でもあり、文化関係の仕事にも意欲があってのことの反映かなと思っていました。しかし、それにしても、いささか違和感が残っていました。
 その違和感・疑問をとくカギが、「1950年12月8日」にあったことを知ったのはずいぶんあとでした。いくつかの資料でその事実を知ることになりましたが、辻井氏自身が次のように語られています。
 「じつは『宮本百合子展』をやらなければならないという、多少責任みたいなものを感じていました。というのは、宮本百合子が亡くなる前年(1950年)の12月8日に、東大キャンパスで学生反戦集会をひらこうということになり、私はその集会の責任者として、講演依頼に11月末に本郷の宮本邸に伺いました。そうしたら『どうもこの間ひいた風邪が治りきらなくて困っているのだけれど、学生さんがそれだけ一生懸命やるのだったら、行かなきゃならないわね』と引き受けてくださり、当日、とてもいい話をしていただきました。ところが、風邪をさらに悪くして明くる正月早々亡くなられてしまいました。それで責任みたいな思いをずっと持っていたわけです」(辻井喬『私の松本清張論』)。
 この本のなかには、1981年11月に開かれた「宮本百合子展」の実行委員長の作家・松本清張さんが辻井さんに「辻井君、この展覧会は君にとってノスタルジーだったんだ」と語ったことも紹介されています。松本清張さんが、なぜ実行委員長だったのか。辻井氏によれば、学生時代からの友人であった、上田耕一郎・日本共産党副委員長に相談した結果だったということです。
 この本のなかで紹介されている、松本清張さんの「宮本百合子」論も興味深いものです。そしてなにより辻井さんの「松本清張論」そのものです。これらを通じて、辻井喬さんとはどういう人なのかも新鮮につかむことができたように思います。
 辻井喬さんの追悼の思いを込めて、あらためて『私の松本清張論』を読み返しました。
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