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丸・竹・夷

2014年7月アーカイブ

 「(座右の銘は)泰然自若」「ゴリラのように泰然自若としていたい」。
 たいへんユニークです。「京都大学新聞」7月16日号に京都大学次期総長の山極寿一さんの記者会見の一問一答・詳報が掲載されています。
 問いの一つ―「京大の総長というのは、一人ひとり非常に個性の強い教員をまとめる、いわば猛獣使いだと聞いたことがある。自身ではどのようなものだと考えるか」。
 答え―「猛獣使いと言ったのは確か尾池和夫先生(第24代京都大学総長)だ。私自身猛獣として生きてきたので、これから猛獣使いになろうと思っている。京大は非常に個性豊かな先生が多い。それが京大だと思うし、京大が世界の最前線で活躍できる人材を育ててきた土壌であり、自由の発想、創造の精神を生んだと思うが、猛獣であるだけではいけないだろう。走る方向を猛獣使いによって定められないと予期せぬ方向へ飛び込んでしまう」。そして「その方向性とそこから得た成果をみんなで確認するということをやりたい」。なるほどと思います。
 山極さんは、「しんぶん赤旗」7月30日付にも登場されています。タイトルは「戦争しないゴリラに学べ」です。
 「ゴリラが人間を超えるのは抑制力です。『負けない構え』です。『負けない』とは相手と対等な位置に立つこと。『勝つ』とは相手を退け、屈服させ、支配すること。勝者はどんどん孤独になる。ゴリラは絶対にやりません」「ゴリラは勝ち負けをつくらない。ゴリラの胸たたきは自己主張であって、暴力的でも戦争好きでもありません。『勝ち組』『負け組』の社会は人間のつくる社会には似合わない。ゴリラに学びたいところです」「ゴリラに学べば、戦争をしない社会がつくれますよ」。
 卓見です。山極さんの発言に目が離せない―総長任期は6年です。

※今回の新総長選出とその経過にはたいへん大きな注目がよせられました。そのポイントを、高山佳奈子・京都大学大学院法学研究科教授が「京都革新懇」ニュース254号で語られています。ご一読ください。

 「台風17号の通過で天気は終日、荒れ模様だった。先月27日投、開票された京都市長選。紙面での当落判定担当の一人だった私にとって、その大接戦はいま思いだしても脈拍が上がるほどの緊張の連続だった・・・(中略)・・・長かった選挙取材を通じ、地方権力を支える政党、労組、業界、行政などの重層的な構造を垣間見た気がする。選挙戦は激しく、投票日当日もさまざまな情報、うわさが飛び交った。『田辺支援の建設業界が自動車3千台を動員している』『地元金融機関の支店長クラスが、融資先に電話をかけまくっている』・・・。任期満了を迎えた今川正彦市長の後継指名で、田辺氏支援で動いていた市役所幹部も開票時間中、臨時局長懇談会の名目で市内のホテルに待機、木村氏勝利の場合は、急きょ、今後の対応を練ることになっていた。148836票対148515票。開票は結局、その差321票でピリオドを打った。
 地価が高騰し、地上げが深刻な問題になっている古都・京都で、木村氏は町並み保存を訴えた。一方、田辺氏は今川市政がすすめてきた開発重視の都市活性化を評価した。京都ではいま、5年後に迎える平安建都1200年に向けて、地下鉄東西線をはじめ、大規模プロジェクトが目白押しだ。そのほとんどが府、京都市、地元経済界の協力事業。仮に木村市政が誕生すれば、それは市長与党の自公民を含む『利益共同体』の崩壊を意味する。木村陣営の若い運動員の隣で、市の局長自らがビラをまき、自民党府連からは建設業者に対し、『期日後焼却』とした支援要請文書がファクシミリで流れ、個人演説会への動員人数が事細かく指令された・・・」。1989年京都市長選挙のあとの9月3日付の記事です。
 数年前といっておきましょう。この記事を書いた記者と食事をともにする機会がありました。力のある記者で、大阪本社社会部での活動が長く、新聞協会賞をとった検察FD改竄事件報道の中心でもありました。東京本社で編集にかかわったり、関西の大きな支局の支局長も歴任してきました。この数年前の会食のときは、支局長当時でした。あれこれの管理職業務や雑務に追われているということでした。「早く、支局長などかわって現場で取材して記事をかいているほうがむいていますよ」とさかんにけしかけたものでした。その時にも上記の記事が話題になりました。
 市長選当時、新聞記者のなかでは「万平ファン」が少なからず広がりました。木村万平さんは、冗談を言ったり、リップサービスなどとは無縁な人でしたが、木村万平さんの「気骨さ」「頑固さ」―利権集団「利益共同体」に敢然と立ち向かう姿勢が、ドロドロした京都市政のもと、たいへん新鮮でした。
 1993年の大晦日、京都府委員会事務所の宿直当番でした。翌・元旦早朝、いつものとおり、郵便ポストをのぞくと、新聞各紙の元旦特集号の束とともに、大きい茶封筒がはいっていました。
 裏を見ると、「木村万平」とサインがありました。驚きでした。前日事務所の入り口のシャッターを閉めたのは、夜10時頃ですから、それ以降に放り込んでもらったことになります。中身をみてさらに驚きです。1枚1枚びっしり詰まった、数十枚の報告文書と資料です。
 その封筒には、経過がありました。木村万平さんは、94年知事選挙にむけ、93年10月15日に出馬表明、年内、府内をきめ細かくまわられました。年の瀬も押し詰まった12月25日、府内をまわられた反応やだされた要求などをお聞きしようと「話をうかがいたいので、お宅のほうに行かせてもらってもいいですか」と電話をいれました。そのときの木村万平さんの返事は「いま、整理をしているので、整理がついたらお伝えしましょう」でした。この封筒にはいっていた報告文書は、府内各地での反応、要求、だされた意見などをまとめられたものでした。木村万平さんの作風・仕事ぶりをたいへんよくあらわしていました。
 木村万平さんの著作・『京都破壊に抗して―市民運動の軌跡』をあらためて手にとってみました。
 京都破壊への激しい怒りと厳しい批判だけでなく、自ら現場を歩き、草の根から、京都破壊の実態を鋭く告発、大学の研究室がおこなうフィールドワークのような作業を一人で丹念におこなわれています。京都破壊のもと、京都市民が暮らす現場とその変貌がリアルに描かれています。おそらく、30年、50年後、京都のまちをふり返ったとき、学術的資料として一級のものと評価されるものではないかと思います。そして、この著作は、木村万平さん自身が、京都市内各地のまちづくり運動に参加された記録であり、京都の町衆のたたかいがどのように展開されたかもリアルに記述されています。
 木村万平さんの「真骨頂」を示しています。自らの目で確かめ、自ら決めたこと、決意したことはとことんやりぬく―それが木村万平さんでした。
 1989年、京都市長選挙の年。消費税導入をめぐって「列島騒然」。それは知事選や市長選にもあらわれました。京都市長選挙を前に、その年前半の千葉県知事選、名古屋市長選での革新候補の大量得票、大善戦は大きな衝撃をあたえました。
 名古屋市長選挙の翌日の夕方、木村万平さん宅にお電話をしました。選挙の結果と特徴などをお知らせしようと思ったからです。京都市長選に臨まれる木村万平さんを激励したいとの思いもいささかありました。
 「私は勝ちます」。その時返ってきた言葉です。2度繰り返され、2度目は「必ず勝ちます」と強調されました。返す言葉はなく、沈黙の数秒間でした。
 「信念の人」、さらにいえば「執念の人」といってもいいでしょう。木村万平さんの「執念」は、その後の中国・天安門事件のあとの政治的雰囲気の変化のなかでも微動だにしませんでした。木村万平さんの「執念」が世論を動かしたのか、選挙戦の終盤、朝日新聞は世論調査結果をふまえて「木村優勢」と報じるまでになりました。
 故・寿岳章子さんが紹介されていたように「命をかけて立ち上がった」という言葉は、木村万平さんにとっては決して誇張ではありませんでした。
 ある日、木村万平さんとご自宅でお話をしていた時、それまでの話の脈略とはまったく無関係に、零された一言があります。
 「私は、(支援者から)『がんばってくれ』と言われるのが嫌なんです」。選挙戦に全力を傾注されていた木村万平さんにとっては、「これ以上、どうがんばれというのか」という率直な思いがあったとのことです。そして、「『いっしょにがんばりましょう』ならいいんですが」とも付け加えられました。「市井の人」であるとともに「希有の人」でした。
 「あらためて私は木村万平論を試みたい。選挙にもいろいろあるとしみじみ思う。いわゆる『候補』とはまるで違う人だった。率直に言って無名の、ふつうの人だった。もちろん、木村万平さんが百足屋町でいかなるたたかいをしておられたかを仔細に知っていたら早くそのことはわかっていたろうが、私には数ある山鉾町の一つを守るためにあれこれがんばった人、という程度の認識しかなかった。
 とにかく木村さんにきまって、我々は出発したが、一旦会ってみればたちどころに何とすばらしい候補と思わずにはおられなかった。木村さんは長い間中学校教員だった。そして山鉾町に住んでいた。この2つの条件が木村候補の骨格である。町こわしと、京都の教育の堕落。そこから出発した木村万平さんはただちにその他もろもろの京都が直面するさまざまの深刻な状況をすべて理解した。すべての京都の問題、ひとりひとりが抱える厄介な、悲しい、腹のたつことの数々に木村さんは心を通わすことができた。
 あとで聞けば、何と木村さんは市長候補を決める会の発足当初に自分のところに指名がくるだろうと予測しておられたと言う。そして、その時には命をかけて立ち上がり、たたかい、勝利して、市長になって、この京都を、地域住民とともに守ろうと決意なさったという。その話をしながら、木村万平さんは少うし笑みを浮かべつつ、ややさびしげに『私はやっぱり戦中派なんですねえ』としめくくられた。
 結局木村万平候補のみごとな、果敢な行動は、大正二ケタ世代、あの悪しき時代に生き残られ、ある決意をもっておのが人生を生きてこられたことからすべて発しているのだ。すがすがしい謙虚さと同時に存する強い自信、慎重でありながらきわめて大胆な将来の設計能力。すべて日本のあの時代が生んだひとりの人間が、そして同時にたぐい稀な資質をもって作られた歴史こそ1989年京都市長選であった。
 そして私たちも木村さんとともに動いた。『こんな人はじめて』という感動の声を何とたびたび我々は聞いたことだろう。それは言ってみれば『志』の選挙だった。木村さんが後に敗因を分析して語られた相手側の『利権集団の気迫』に対する『志』。なるほど一旦負けはしたものの、我々には決して地に伏して涙しているだけに終わらない。『志』は永遠に人を動かし続ける」。
 京都の町が祇園祭り・宵山ににぎわっているなか、木村万平さんが亡くなったという報がはいってきました。1924年3月9日生まれ、90才でした。
 89年京都市長選挙、90年、94年京都府知事選挙で候補者として大奮闘された。とりわけ、89年京都市長選挙での321票差の大接戦は、大激戦の京都市長選挙のなかでも特筆すべきものでした。
 この報にふれた時、頭をよぎったのが引用させてもらった文章です。国語学者の故・寿岳章子さんが、1989年京都市長選挙の記録集によせられたものです。

※木村万平さんとは、忘れることのできない、いくつかのエピソードがあります。あらためてこのコーナーでお伝えしたいと思います。

 このあたりの「定番」の一つは「海鮮丼」です。天橋立発の特急・はしだて号で京都府委員会にもどる予定でした。出発までの時間で昼食。もう少し時間があれば、近くを散歩してからとも考えていたのですが、そんな時間もなく、しかも、あいにく雨、結局近くの食堂での食事となりました。「生ビールでも」とも思いましたが、「ノンアルコール」で「ガマン」です。
 前日夜、宿舎の与謝野町・野田川ユースセンターについたのが10時前。風呂にはいって早く寝ようと思いましたが、2~3本の電話で結局12時半頃になりました。
 翌朝7時前、部屋をノックする音。党与謝野町会議員団の団長の伊藤さんでした。手には、その日の朝刊です。伊藤さん宅に何度か泊めてもらったことがあります。それだけに、毎朝全紙に目をおとすことが「日課」だということを知っている伊藤さんならではの配慮です。頭が下がります。
 朝9時、野村前町会議員宅。5人でうちあわせ。新しい入党者をどう迎えるかです。20分ほどのうちあわせでしたが、意気ごみが違います。前日、宮津市で3人の入党者を迎えているだけに、また、共通して「戦争への危険」「なんとかしなければ」との思いが感じられただけに「与謝野町でも」となおさらです。
 その意気ごみが反映してか、午前中に4人の入党者を迎えることができました。昼1時前に再度集まり、反応などをだしあいました。確かな手応えを感じるものになりました。海鮮丼で満腹、京都駅に着くまでの2時間余り、停車駅の福知山も、綾部も、園部も、亀岡もまったく気づかず、熟睡でした。
 いま、京都府委員会は常任委員、勤務員が手分けして、地区委員会にはいり、行動をともにしています。私の分担は京都府南部の山城地区委員会と北部の与謝地区委員会です。7月後半、なんとか時間をつくってです。京都府委員会事務所に戻って「西村京太郎の世界」―時刻表とにらめっこです。

 このコーナー(NO.576)で加藤あい・京都市会議員のことを紹介させてもらったら、「時節柄」もあって、ずいぶん反響がありました。市議の1期目、2期目にそれぞれ出産。現在、加藤さんがその時期のこともふりかえりながら、どんな気持ちで次の選挙に臨もうとしているかという点をふれました。
 京都の日本共産党議員のみなさんのなかには、加藤さんの「先達」といっていい経験をもつ人がいます。その一人が、八幡市の日本共産党市会議員団長の森下由美さんです。今回府会へ挑戦、定数2でのはじめての議席獲得―歴史的勝利へ燃えています。
 森下さんの八幡市会議員初当選は33才の時でした。娘さん2人、7才と2才でした。そして、森下さん3期目のときです。40才で3人目を出産、男の子でした。娘さん2人は10才と15才に成長していました。
 現職市会議員の出産は、八幡市ではもちろんはじめてのこと、一度調べてみたいところですが、府内でもほとんど例がなかったのではないでしょうか。出産は議会の閉会中だから、欠席しなくてもよかったとのことでした。他都市の選挙応援に子どもをかかえていったこともありました。
 「たしかにたいへんだったけれど、いまから考えると、ものすごく充実していたと思う」「その当時、ささえてもらった人が、その後もずいぶん力になっていただいた」。森下さんの実感です。
 森下さんが府会への挑戦を表明して以降、少なくない人たち、とくに女性から「森下さんががんばるんだったら、私もがんばらないと」との声がよせられているとのことです。
 「森下さんをみていると、私も共産党にはいろうかな、という気持ちになりました」。この日、森下さんの地元・八幡市の橋本地域で50代の快活な女性が入党されました。ごいっしょして、たいへんすがすがしい気持ちになりました。そのあと、森下夫妻とコーヒーを傾けながら、こんな話になりました。

 「憲法9条の理念がまさに風前のともしび。戦争への道筋を作ろうとしているとしか、思えない。戦後69年。平和国家としての日本がまさに崩壊の危機」
 民主党の左京区選出の京都市会議員の集団的自衛権問題でのブログの一節です。私たちは、国民の世論と運動の力に依拠すれば、憲法9条が「風前のともしび」だとは、単純には考えていません。それを許すかどうか、これからが正念場だと考えています。  
 同時に、その危険性はいささかも軽視できません。今回の集団的自衛権行使容認と閣議決定が「戦争への道筋をつくろうとしている」との指摘はまったくそのとおりです。
 このなかで問われている大事な問題の一つは、政党の真価ではないでしょうか。上記のブログでは「『平和の党』の公明党が妥協し、また、わが民主も全然だめだし、安倍首相の思いのまま」とものべています。まったくそのとおりです。
 しかし、「ちょっとまてよ」です。この市会議員は、れっきとした民主党幹部であり、民主党公認の京都市会議員です。その責任をどう考えているのでしょうか。
 しかもです。左京区ではいま、いっせい地方選挙にむけて、前原衆院議員を軸に府・京都市会議員4名との連名ポスターがはりだされています。前原衆院議員の力をかりていっせい地方選挙をのりきろうとの思いはみえみえです。前原衆院議員といえば、民主党のなかで集団的自衛権行使容認の先頭にたっている人です。この市会議員のいうように、集団的自衛権問題で、民主党を「全然だめ」にした中心人物です。
 真剣な自己検討が必要ではないでしょうか。

 「それぞれの候補者の人生や活動にはドラマがあり、日本共産党員であるがゆえの人間的魅力は、他党にまねできないものです」
 もう何年前の発行になるでしょうか。政策活動や候補者宣伝などの「教科書」と言ってもいい文書、長く引き継がれ、いわば「古典」的文書があります。不破哲三さんの『政策活動入門』です。そのなかには「候補者宣伝について」という文書も収録されています。最初に紹介した文書はその一節です。
 先日、日本共産党の冨樫京都市会議員と話し合う機会がありました。この人のリーフやこれまでの宣伝物には、学生時代や市会議員としての記述はずいぶんあるのですが、大学を卒業してから市会議員に立候補・議員になるまでの「10年間」についてはあまり記述はありませんでした。事実上、宣伝物上は「空白の10年」でした。私の質問の一つはそのことでした。
 その10年間、党の専従として「しんぶん赤旗」出張所での活動でした。配達・集金活動に責任をもつ部署です。
 「毎日、毎日の積み重ね、ねばり強い活動が、社会をかえていく確かな一歩だと確信しました」
 この言葉につづいてこんな話がでてきました。読者のなかには、経済的にはたいへんで日々の生活にも苦労している人たちも少なくなかったとのことです。集金にうかがうと、タンスのひきだしから、小銭を探し集めるようにして、月々の代金をはらってくれる・・・
 冨樫さんは「共産党はこんな人たちに支えられてているだなあ」「そんな人たちから頼りにされているのが共産党なんだなあ」と実感したそうです。
 「議員になってから、忙しいし、うまくいかないこともいっぱいあるけれど、そんなときにはあのころのことを思い出す」という言葉もありました。
 あらためて冨樫さんの人物像にふれたように思いました。どこかの党のように「磨けば、メッキがはげる」のではなく、「磨けば磨くほど、光ってくる」のが日本共産党の候補者だと確信したひとときでした。一つ一つの積み重ねのなかで、日本共産党は7月15日、党創立92周年の記念日を迎えます。

 口々に「安倍首相はおかしい」「集団的自衛権行使容認は間違っている」との声がでたそうです。ある体育会の同窓会の席です。日本共産党の議員や候補者のなかには、体育会出身の人がけっこういます。
 京都市山科区の本庄孝夫府会候補(元府議)は、大学で野球部時代、ピッチャーで4番、その活躍は抜群のものがありました。京田辺市の塩貝建夫市会議員は本庄さんと同じ大学で先輩です。木津川マラソン成功へ「縁の下の力持ち」の役割を果たしてきました。京都市左京区の樋口英明市会議員は大学の体育会の会長経験者です。
 「体育会出身」の新登場―2015年1月亀岡市会議員選挙に立候補予定の三上きよしさんです。先に紹介したやりとりは三上さんが参加したときのことです。市会議員選挙に「共産党からでること」を伝えると、驚きとともに、「知り合いに頼んでやる」「なんとかしてやろう」などなど、そこは体育会系ならではの心意気です。
 この同窓会で大きな話題になったのが、最近の安倍政権についてです。最初に紹介した声です。「朝日」「毎日」「日経」の世論調査で、安倍内閣の支持率は内閣発足以来最低の数字におちこみました。「毎日」の調査では「戦争に巻き込まれる」と「思う」人が71%にのぼりました。
 京都出身の大投手・沢村栄治さんは27才で台湾沖で戦死しています。「平和が一番、そう思います」。市田書記局長(当時。現副委員長)と対談した吉田義男・元阪神タイガース監督の言葉です(「しんぶん赤旗」日曜版・04年3月28日付)。
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