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京都府委員会の紹介

7.府民とともに、あすの京都へ

反動攻勢押しかえし


2002年知事選挙での
「民主府政の会」ポスター

 2002年知事選挙は、24年にわたる自民党府政の破綻と自民党の鈴木・加藤疑惑など政官業癒着への怒り、野中代議士の「鶴の一声」で官僚候補が決まったことへの批判が渦巻くなかでたたかわれました。

 この知事選挙の結果は自民党府政下24年のなかでの画期をなす到達と特徴を示しました。民主府政の会の森川明候補が、草の根からの要求と運動を背景に自民党府政になってからの最高票39万1,638票を獲得、京都市内の北区、左京区、右京区、向日市ではトップでした。この選挙戦で森川候補は、出口調査で民主党支持者の4割、社民党支持者の6、7割、とくに無党派層の5割の支持を獲得、「オール与党」候補への批判が広く寄せられました。

 「オール与党」勢力は現職知事の引退表明で、候補者選考に難航、一部財界人が大学教授の擁立に走ったり、野中代議士の直系とされてきた人物が出馬するなど、この20年来の「オール与党」体制の破綻を示しました。

 この間、保守層もふくめた無党派の人々が、自らの地域と自治体の将来を真剣に考え、日本共産党との共同にふみだす新しい流れが広がりました。93年にはいったんゼロになった日本共産党が与党ないし応援する自治体は、2003年6月の南山城村長選挙で橋本洋1候補が当選、民主村政が誕生したのを含め、この10年で府内自治体の2割近くに前進しています。

 2003年いっせい地方選挙は、90年代後半の躍進の流れから、2000年代にはいって押しもどされた力関係を押しかえし、さらに前進することが求められた選挙戦でした。

 この選挙戦では、公明党・創価学会を先頭に、「オール与党」をまきこんで、民医連での医療事件をつかった反共攻撃がおこなわれました。党は「脱ムダ」「暮らし応援」の政策をかかげるとともに、反共攻撃と正面からたたかいぬきました。また「イラク戦争ストップ」「医療費3割負担反対」の声を広げてたたかいぬきました。

 党は、府議会で2001年の参議院比例票の1.26倍の23万5,662票を獲得しましたが、3議席減の12議席、京都市議会では改選議席の20議席を維持しました。後半戦では5市で26議席、17町議会で43議席を獲得、京都の地方議員数は172人となりました。いっせい地方選挙のたたかいは、おしもどされた地点から反撃し、前進への第一歩の足がかりをつかむものとなりました。この選挙で、公明党は府会2人区を中心に民主党を推薦し、民主党は公明党の力をかり、「敵は共産党」と呼号して、日本共産党落としの布陣をとりました。

 2002年10月の大山崎町会議員選挙で定数16(2減)のもと、党は6名全員当選を果たし、議席占有率37.5%で単独全国一になりました。また03年7月の向日市会議員選挙では定数24で8名全員当選を果たし、議席占有率33.3%、市段階では引きつづき全国一を確保しました。

 今日、都道府県議、政令市議、一般市議、町議で京都の議員団が議席占有率第一位となっています。

くらし、平和の共同ひろげ


テロ糾弾、報復戦争反対訴え府民大集会

 21世紀をむかえ、アメリカの一国覇権主義の立場による「力の政策」はいっそう危険な方向にすすみ、国際テロ事件と報復戦争を契機として「覇権主義の暴走」ともいうべき道をつきすすんできました。アメリカは先制攻撃戦略と核兵器の一方的使用政策をうちだし、世界の世論にさからってイラク攻撃につきすすみました。

 これらの危険な動きにたいし、世界の平和を求める動きと世論も大きく広がってきました。一国が世界を自由勝手に動かせる時代ではなくなりつつあります。

 日本共産党は、世界の戦争と平和をめぐる進路が根本から問われる激動のなか、世界にはたらきかける野党外交に力をつくすとともに、全国津々浦々で平和の行動に取り組みました。

 アメリカがイラク攻撃を強行した3月20日を前後して、京都では15日には4千人、23日には5千人が京都市内で戦争に反対する「ピースウォーク」に参加したのをはじめイラク攻撃にたいして幅ひろい府民がさまざまな運動にたちあがりました。平和を求める多様な運動が展開され、宗教者や若い世代の運動も特筆すべき広がりが生まれました。

 小泉内閣の2年半、「構造改革」の名で、国民への多大な負担増の押しつけ、大企業のリストラ応援、中小企業つぶしが横行してきました。この府民犠牲の政治にたいするたたかいが広範に取り組まれてきました。健康保険3割負担に反対するたたかいでは、京都社会保障推進協議会の意見広告に25の地域医師会すべてが賛同に名をつらねました。子どもの医療費無料化や住宅改修助成を求める運動をはじめ、草の根の運動も広がってきました。

 京都府委員会は2002年8月に「党創立80周年記念交歓会」を開催しました。この交歓会には、府内の幅広い各界・各層が集い、党の集会にはじめて在日本大韓民国民団京都府地方本部、在日本朝鮮人総聯合会京都府本部からの参加もありました。

歴史に学び、新しい歴史をつくろう

 京都府党の出発は、1922年7月15日の党創立の翌年、23年1月1日です。2004年1月1日でちょうど81年です。81年の府党のあゆみのなかで、この20年は、重要な歴史的特徴をもった時期として記録できます。世界と日本の激動のなかでの反動攻勢と「オール与党」体制のもとでの20年でした。同時にこの20年は自民党政治のゆきづまりが大きくすすみ、日本共産党と府民との共同が大きく広がった20年でした。

 2003年総選挙で、党は後退し、民主党が得票をのばしました。しかし、自民党政治の中身を変えない「政権交代」が、何をもたらすかを、府民は体験してきています。京都の民主党が発足以来7年、一貫して「オール与党」の中に位置し、今日憲法問題でも「われわれが政権を担えば、改憲論が活発になる」「安保・外交面で自民党と一致」と公言しているのが現実の姿です。自民党と民主党による偽りの「対決」論の破綻は、直後の京都市長選挙で、民主党がこれまでどおり「対決相手」の自民党と手を組み、古い「オール与党」の枠組みにしがみついていることにもはっきりあらわれています。

 私たちは正しい綱領路線と自民党政治を変える確かな政策をもち、府民の苦難の解決への献身性と理想の旗をかかげる大志をもった党、党支部、党員であったからこそ、世界の激動と反動攻勢のもとでも、日本共産党の存在意義と役割を発揮し、今日までの地歩を築いてきました。

 この歴史に刻まれた奮闘のうえに、私たちは21世紀の今日の活動を展開しています。もちろん、その到達はめざすべき目標からして、今後の大きな前進と飛躍を必要としています。

 激動の21世紀。日本は、自民党政治のもと、政治、経済、社会など、あらゆる分野で深刻な危機がすすみ、大きな歴史的転換点にさしかかっています。世界に目を転じれば、1国覇権主義の無法を許さない、平和の国際秩序を求める力強い胎動がすすんでいます。

 いま、日本共産党は、22回党大会での規約の抜本改定につづき、23回党大会で、党綱領の全面改正・新しい綱領確立をめざしています。

 21世紀の新しい事業の成功へ、歴史に学び、新しい歴史をつくろうではありませんか。

2005年7月19日掲載
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