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丸・竹・夷

「丸竹夷二押御池…」。昔から京都で親しまれてきたわらべ唄です。
日本共産党京都府委員会の建物は、この唄の出発点・丸太町通りに面しています。
この地から発信する私たちのメッセージ。
京の路地裏にしみこんでいく“わらべ唄”のように、皆さんから親しまれることを願っています。

 「一人ひとりの党員を増やす努力、一人ひとり『しんぶん赤旗』読者を増やし、コツコツと配達集金にとりくんできたこと、日々の粘り強い積み重ねが、躍進という結果に実った」。
1月5日の日本共産党旗びらきで、志位委員長は、こう述べました。
 京都でも、この4年間で1800人ほどの人が、新たに入党しました。現在の京都の党員数の約1割を占めます。この"新鮮力"が、躍進の大きな原動力になりました。
 8日付の「しんぶん赤旗」に、「燃える20代トリオ」の記事が載りました。京都市山科区で、自営業を営む20代の夫婦と、友人の20代男性が、昨年11月にそろって党事務所に入党を申し込み、直後の総選挙でも大奮闘したという記事です。
 中村摩耶さん(25)は「両親が熱心な党員」で、「陰ながら応援もありかな」と思っていましたが、参院選のころから党の活動を手伝うようになり、「入るなら夫と一緒」と、夫の拓馬さん(29)を誘っていました。拓馬さんは、安倍政権になって「この人は怖い」と危機感を抱いていました。そんな折、党の本庄孝夫元府議に近所で起きた問題を相談したところ、親身に対応してくれ、これに感動しして入党を決断しました。一方、友人の山岡亮太さん(27)は、中村夫妻との交流を通じて政治への関心が深まり、「自民党も民主党も信用できない。消費税も納得できない。じゃあ共産党はどうなのか」と綱領を読み、「ソ連や中国の共産党と違うこともわかって納得」して入党を決意。「3人で申し込もう」と地区事務所を訪れたとのことです。
 一方、「しんぶん赤旗」12月24日付の「読者の広場」に、投書が載りました。
 「衆院選挙の公示日が近づいた朝、京都で自営業を営む娘から電話があった。夫婦で一晩語り合い、今度の選挙は共産党に入って、党の躍進のために頑張ると決意したという」「(友人とともに)3人で入るから、入党申し込みに推薦者のサインをしてすぐ送れとのことだった」「3人はすぐさま、ビラまき、おかえり宣伝、スマホを使っての情報拡散に大奮闘したらしい。四条河原町での不破演説にも大感激」「『お母さんたちは今日も一日天井知らずの電話かけに頑張るよ』と連日メールで励まし合った」と。中村摩耶さんのお母さん、大分県の佐藤裕子さん(54)の投書でした。
 こんなドラマが全国にあり、響き合い、励まし合う中での党躍進でした。佐藤さんは、「3人とお正月は祝杯をあげるのを楽しみにしている」とこの投書をしめくくっていますが、それはそれは、おいしいお酒だったに違いありません。

 この4月には改悪された学校教育法が施行されます。この改悪では、大学自治の大きな柱である教授会自治・教授会の権限の弱化がもくろまれています。
 1月1日付けで立命館総長に就任された吉田美喜夫さんは、この問題について「教育や研究にじかに関わる人の意見は大事」(「京都新聞」1月9日付)だとして教授会の論議を重視する姿勢をきっぱり示されました。「権限集中より合意形成を」―先に就任された、京都大学の山極新総長の発言です。ともに大学自治と民主主義への新たな決意が感じられます。
 また、就任後の吉田新総長へのマスコミインタビューで「ブラック企業」問題が話題になりました。「卒業生がそのような企業に就職して苦しむことがないような教育が必要になる。青年たちの輝かしい未来のために尽力したい」。こうきっぱり述べられたと京都新聞(1月9日付)に報道されています。
 「労働法の研究者として、また、弁護士として、市民が健康で働くことかできる社会の実現に心を砕いてきた」―この人ならではの発言でしょう。
 新しい船出を象徴する一言だと思います。
 今総選挙の重要なキーワードの一つは間違いなく「自共対決」でした。安倍総理が総選挙の党首討論などで日本共産党・志位委員長と顔をあわせるたびに、「自共対決ですね」と声をかけたことは、たいへん有名になりました。
 安倍総理の発言、いつ頃から出るようになったのか。それは半年前、6月末でした。長い通常国会終了後、各党への挨拶回りの際、日本共産党の控え室を訪問したときでした。「自共対決でしたね」。安倍総理の口からでたのはこの言葉でした。昨年の参議院選挙での日本共産党の躍進が国会の様相を大きくかえました。そのことの実感が安倍総理の発言につながったのでしょう。
 総選挙の終盤、谷垣幹事長の発言もずいぶん話題になりました。「どの政党が国民のためにやりたいことを示せるのか」「一つ示せる党がある。(それは)共産党だ)」「しかし、我々は共産党といっしょにやるわけにはいかない」。不破哲三さんにいわせれば「なんともいえない演説」をおこないました。
 谷垣幹事長の発言は偶然、たまたまの発言ではありません。2年前のことでした。自民党本部の研修会で「日本の政党で地方組織がしっかりし、どこへいってもそれなりのレベルの地方議員をもっているのはそう多くない。共産党というのは、そこは敵ながらあっぱれで、それなりのレベルの地方議員をもっている」、こう発言しています。
 このような自民党中枢幹部による「自共対決」発言。ルーツはいつかと調べてみました。さかのぼること40余年、当時、自民党副総裁の川島正次郎氏の発言でした。
 60年代最初(60年12月)の総選挙での日本共産党の獲得議席は3でした。60年代のたたかいを通じて、60年代最後(69年12月)の総選挙では14議席に躍進しています。得票は319万票でした。
 京都では前年1968年の参議院選挙で定数2の京都選挙区で河田賢治さんの当選、そして1969年の総選挙では1区・谷口善太郎さん、2区・寺前巌さんがともにトップ当選をかちとりました。「日本の夜明けは京都から」というスローガンがひろがっていったのもこの頃です。
 このようななかでの川島正次郎・自民党副総裁の発言でした。氏は「80年代は自共対決の時代になる」と発言しています。
 それから40余年。決して一路前進ではありませんでした。1980年の社会党、公明党の「共産党を除く」社公合意、「オール与党体制」の確立、2003年以降の「2大政党づくり」・・・ともに、国民の選択肢から日本共産党をのぞこうとする究極の反共攻撃でした。「下りのエスカレータを必死にあがろうとする」(志位委員長)ような苦闘の連続でした。その壁が破られたのが昨年の参議院選挙、今回の総選挙でした。衆参国会議員は32名になりました。
 自民党中枢幹部の嗅覚は、今総選挙での日本共産党大躍進の意味をもっとも的確にとらえているのかもしれません。
 1枚の写真をみせてくれました。写真には「昭和9年9月」と記されています。そのお店―理髪店の開業の際の記念写真です。建物はそのままです。職人さんも3人ならんでいます。その店をいまは女性1人できりもりです。
 昭和9年といえば、西暦1934年です。今年は2014年。つまり「開業80年」ということです。そのことを言うと、「ああ、そうですね」とまったく意識されていなかった様子。いささか「小太り」気味のその女性が「いまは細々」というから、若干おかしくなりました。通いだしてから、もう20年をこえたでしょう。いつも、時間外の「8時から」やってもらっています。
 事務所近くの小食堂。今朝も朝6時すぎには、下京区の自宅から到着。7時ころには表の「門はき」です。ご夫婦で、まさに本来の言葉通り、小さい店の維持に「一所懸命」です。
 京都のまちはこんな人たちによって支えられています。そして、私たち・日本共産党もです。
 総選挙後、顔をあわせるなり、それぞれ「選挙ほんとによかったですね」の言葉がかえってきました。

 「人間的な暖かさ、包容力、精錬高潔な生き方」「まとまりを重視し、好き嫌いによって人を重用したり敬遠したりすることはありません」「相手の議論を容れる度量の広さを示す一方、自説を論ずることばの明晰さ、説得力にも定評のあるところ」。
 そしてです。「1968年に法学部に入学し、その後大学院の修士・博士課程を立命館で学び、81年に産業社会学部教授に就任して以来、教員として34年間、立命館一筋に生きてきた生粋の立命人」「一心に立命館をよくする大事業に専心することができます」。
 このように、多くの人たちから推し上げられた吉田美喜夫教授が、立命館の総長に選出されました。11月9日の夜、このニュースが駆け巡りました。
 いろいろな書き物や何人かの方からの人物評をうかがって「こんな人こそ」と思っていました。11月9日の結果を聞いて、やっぱり「こんな人だからこそ」と思いました。
 時代の風は「新自由主義」「権限強化」から「自治」「民主主義」に向かっているようにも感じます。
 そういえば、京都大学の新総長に就任された山極寿一さんも、「権限集中よりも合意形成」と強調されています。
 新しい流れに期待するところ、注目するところ大です。
 1945年11月21日、治安警察法廃止が公布されています。そして多くの、いわゆる「政治犯」が釈放されています。
 その5ヵ月前の6月17日午後のことです。「巣鴨の東京拘置所の正面から、網走刑務所から私の身柄をうけとりにきた3人の看守につれられて池袋の駅へ歩きはじめた」「看守たちは、ぽつりぽつりと口をききはじめたが、先が長いのに、そんな重い荷物をもって行っても『領置』になって虫に食われるのだから仕方がないだろう、どうして、家族の者に宅下して来なかったときいた。私のトランクには、冬の衣類と本が入っていた。私は、だいたい今年中には日本の敗北で終わるだろう。そうなれば政治犯は釈放されるだろうと思っていたので、それでも、1年間位新しい差し入れなしでもよめるだけの本のほか、北海道から寒い季節にかえる時の用意のつもりだった」。・・・日本共産党の故・宮本顕治さんの『網走の覚書』の一節です。
 11月1日~3日におこわれた「赤旗まつり」での不破哲三さんの講演「『科学の目』で日本の戦争を考える」は大好評でした。その大要が「しんぶん赤旗」11月7日付に掲載されています。それに刺激され、関連する文献を探していたら、上記の宮本さんの文章をみつけました。
 正確には、この文章が収録されていた「『文藝春秋』にみる昭和史」という文庫版です。この本は、「文藝春秋」と関係誌に掲載された文章のうち、その年ごとにその時代を反映した数本の文章が紹介されているものです。半藤一利さんの監修です。1946年の分としてノミネートされているのが、「網走の覚書」ともう1本です(ちなみにもう1本は南原繁東大総長の「戦歿学徒に告ぐ」)。
 不破さんが明らかにされている侵略戦争と暗黒政治のすさまじい実態のなかで、日本の敗戦を見通していた「透徹した目」―それこそ「科学の目」にあらためて感動です。
 いっせい地方選挙準備で地区委員会や現場をまわっていると、日本共産党の議員の人たちの住民の運動とむすんでの、ユニークなエピソードにであうことがよくあります。
 京都市伏見区のことです。

○伏見区では、一方通行の道でもバイクは両方に通行できます。

 「そこでQUESTION①です」―なぜ伏見ではそうなったのか。

 伏見で、道路の一方通行規制の第1号は墨染通でした。京町通以西が東行きは、バイクが禁止となりました。これは商店街で大騒動になりました。「遠回りをしていると、うどんはのびてしまうやないか」という声。商店街あげての伏見署との交渉。日本共産党の議員もみなさんといっしょにがんばりました。その結果、交通安全に万全を期すことを申し合わせたうえで「2輪は除く」ということになり、それ以降、伏見区での一方通行は墨染通りにならって「2輪は除く」ということになったとのことです。

○もう一つ。伏見区の向島、宇治市の小倉、大久保、城陽市方面から京都市内に入るのにどうしても通らなければならないのが観月橋。京阪宇治線との交差で、ラッシュ時にはたいへんな渋滞でした。

「そこでQUESTION②です」―どんな知恵・解決策がでてきたのか。

 その一つ。京阪宇治線の踏切遮断時間を短縮するため、「宇治行き」「中書島行き」の電車が観月橋踏切ですれ違うようダイヤを組み替えさせたとのことです。確かに、たいへん合理的な一案です。京阪電車や公安委員会とのねばり強い交渉。住民のみなさんと日本共産党の議員がいっしょになって1ヵ月にわたって、毎朝のラッシュ時の調査にもとりくみました。
 要求のあるところ日本共産党あり。知恵は現場にあるということでしょう。
 8月18日のことでした。この時期、自民党は例年、各種の研修会や講演会などをおこなっています。その一つでの発言です。自民党のあるグループの代表、現職大臣であり、元自民党総裁でもあります。
 「自民党がみなポチになっている、という議論が正しいとは思わない」「最後はまとまるのが政権の基本条件だ」。そう報道されています。
 秘密保護法や集団的自衛権行使容認問題などで、自民党の国会議員などの中からは、まともな批判の声はほとんどきかれませんでした。そんな中、元自民党幹事長の古賀誠さんの「自民党はいまやみんなポチになっている」との直言はたいへん的を射たものでした。
 紹介した発言は「反論」というより、自ら「ポチ」であることの表明のように受け取れました。
 それから2週間後。この人は、安倍総理の要請に応えて、自民党幹事長に就任です。経済情勢の悪化と国民の批判の高まりのなか、消費税10%増税の推進役として党内のとりまとめ役を期待されているようです。秘密保護法や集団的自衛権の問題などを通じて、これまでの「リベラル派」というレッテルは、すでにはがれています。
 いまや安倍政権をささえる「大番頭」・・・「番犬」といってもいいかもしれません・・・そんな役割をはたそうというのでしょうか。
 8月18日の発言は、自らへの政権中枢からの心配・懸念を払拭し、「安倍政権をささえますよ」「ご心配なく」とのメッセージだったのでないか。「杉下右京」流にいえば、「それですべてがつながります」。
 その地域の有権者、そして支持者、党員はどううけとめたのでしょうか。
 次の京都市会議員選挙で、これまで選ばれてきた選挙区(上京区)から別の選挙区(伏見区)に移ることになったというのです。そして、もともと選ばれてきた選挙区では、党として候補者をたてない、「撤退」するというのです。公明党の京都市会議員です。
 「どんな説明をするのか」と、その議員のブログをのぞいてみました。その議員は公明党市会議員のなかでは、ネット発信には群を抜いて活発なほうです。しかし、公明新聞に発表になってから、2日たってもなんの説明もありません。説明のしようがないのでしょう。
 理由ははっきりしています。京都市議会の上京選挙区は、公明党もふくめ、オール与党の多数によって、今回定数が5から4に削減されました。「もう勝てない」と判断したのでしょう。
 たしかに、数字は雄弁に物語っています。公明党は京都で比例票で後退、低迷を続け、昨年の参院選の比例票は、上京区の場合、第5党。第6党のみんなの党との差も292票差です。市会議員選挙票も、2003年には5千票あったのが、2007年、2011年には4千票程度に大きく減らしています
 「勝てないから、別の選挙区ででます」。まずは上京区の有権者、支持者、党員にどんな説明をするのでしょうか。あまり我慢強いほうではありませんが、いましばらくは注目したいと思います。

 その一瞬、時計がとまったかのようでした。委員会室の空気が固まったようでした。
 1976年、国会は「ロッキード事件」に騒然とした状況になりました。ロッキード社による航空機売り込みにからぬ巨大な疑獄事件として、田中角栄総理をめぐる「田中金脈問題」として大問題となりました。
 田中総理の「刎頸の友」―政商・小佐野賢治氏が国会の証人喚問によびだされました。小佐野氏は「記憶にございません」を連発しました。事実と違うことを答えれば、偽証で議員証言法違反になることから、「苦肉の策」の答弁です。
 その時です。「記憶にないということは、その事実を否定できないのですね」との追及です。「記憶にございません」という答弁ですり抜けようとしていた人たちに衝撃が走りました。まるで「頭が真っ白になった」かのような小佐野氏の表情をいまも忘れることはできません。弁護士出身ならではの、的を射た追及でした。
 追及にたったのは、日本共産党の東中光雄衆院議員です。同志社大学出身です。連続10期当選、30年にわたって活躍されました。8月7日亡くなられました。90才でした。

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