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活動と政策

2019.12.13 (金)

12/6 ベトナム共産党との理論交流会での寺田茂副委員長の報告

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 日本共産党とベトナム共産党との第9回理論交流会議が12月3日もたれ、ベトナム共産党代表団は12月6日、京都府委員会を訪問、京都府委員会との懇談がおこなわれました。

 この懇談では、ベトナム共産党代表団の求めに応じて、京都での日本共産党の歴史と活動について京都府委員会から報告をおこないました。その内容について、紹介します。 なお、当日、時間の制約で割愛した部分についても補足しています。

京都の党の歴史と活動について

懇談の場の設定に、心から感謝、歓迎

 まず最初に、このような機会をもつことができ、心から感謝と歓迎の思いをお伝えしたいと思います。

 京都は、アメリカのベトナム侵略に反対し、ベトナム支援の活動が活発にとりくまれた地域です。その当時の活動は、お配りしています、京都の民主的な地方新聞「京都民報」の当時の紙面にも紹介されています。

 当時のエピソードを一つだけ紹介したいと思います。1975年5月1日のことです。この日はメーデーで府内各地で集会やデモがおこなわれました。京都のある有名な大学でのメーデーの集会で、挨拶にたった大学総長が冒頭、次のようにのべられました。

 「ベトナム人民は勝利しました」、こう言われ、万雷の拍手と歓声をうけました。その前日・4月30日は、サイゴンのかいらい政権が陥落し、南ベトナムの完全解放がかちとられた日です。そのことを京都の多くの人たちが自らの事のように喜びあったことを、今も鮮明に覚えています。

京都での日本共産党の歩み

 京都の党の誕生は、党創立の半年後、1923年1月1日です。6人の党員によって立ち上げられました。それから、来年1月1日で97年になります。

 今日、党員数は1万6千、支部数は約1000です。京都府内の小学校数は380ですから、平均して、1小学校あたり3つの支部ということになります。府内隅々、草の根に根をはった党があり、そこに党員が日々がんばっているーこれが京都の党の力の源泉になっていると思います。

 京都の地方政治では、京都府議会、京都市議会でいずれも共産党が第2党、京都府議会では定数60のうち13名、京都市議会では定数67のうち18名をしめています。

 京都の地方議会全体では、すべての議会に議席をしめ、総勢114名、議席占有率は20%を突破し、京都で「5人に1人は共産党」の水準を確保しています。

 また、女性議員は、総数109名中、日本共産党の女性議員は51名、「京都では女性 議員の半分は日本共産党議員」という水準になっています。

 国政選挙では、この間の比例代表選挙で、日本共産党の都道府県単位の得票率では京 都は全国トップを維持し、過去には京都で、自民党をうわまわり第1党を確保したこと や定数1の衆議院小選挙区京都3区で勝利したこともあります。昨年の参議院選挙では 定数2の京都選挙区で勝利をおさめています。

 このような到達のなかで、京都の党の、そして京都の民主勢力の共通のスローガンとして「日本の夜明けは京都から」というスローガンをかかげてきました。そして、このスローガンは、京都のみならず、全国の多くの人々の、いわば「公認のスローガン」になっているのではと、考えています。

 京都は、日本のなかで日本共産党のもっとも強い地域、牙城だといわれることがあります。マスコミもそのような目で注目されてきました。

 私たちは京都の現状、到達について些かも満足しているわけではないし、京都の党の果たすべき役割からみてももっともっと力をつけないとだめだと考えています。

 そのことを前提に、京都の党の今日の到達をつくりだしてきたものは何か、という点について、2つの角度からお話したいと思います。

京都の政治的、風土のもとで

 その一つ、客観的条件についてです。京都の歴史的、政治的風土ー社会進歩と革新の伝統、自治意識の高さなどをあげることができると思います。

 京都は大学のまちといわれてきましたが、戦前戦後を通じて、進歩的な知識人、学生、宗教者の果たした役割や京都の革新的風土の存在は非常に大きかったと思います。

 また、府内各地でのさまざまな運動、住民運動や労働運動、農民、漁民の運動の広がりも京都ならではの特徴だったと思います。

 自治意識という点では、例えば、世界的にも有名な祇園まつりは、戦乱の中、京都の町衆が自分たちの力で再建したものであり、京都の小学校の出発は市民が自主的に立ち上げたものでした。このような気風は今日まで脈々と引き継がれています。

 京都の党はこのような風土にはぐくまれ、前進、成長・発展をとげてきたといえると思います。

京都の党が努力と探求

あわせて、京都の党の努力と探求です。

①〝要求のあるところ、運動のあるところ共産党あり〟という点です。

 私たちは立党の精神である「国民の苦難の軽減」に一貫してとりくみ、重視してきました。京都でさまざまな、住民の要求や運動のあるところ、常にそこには共産党員がいる、そういう状況をつくってきました。この活動が、日本共産党と府民の深く、広い結びつきをつくってきたと思います。例えば、台風など災害の発生した時に、「現場にいちばん最初にかけつけるのは共産党」というのは定評になっています。

②府民との共同で政治を変えるーいわば「統一戦線」の立場を一貫して重視つらぬいてきた点です。

 そして革新的な人たちとの共同だけでなく、保守層との共同にもおおいに力を注いできました。「地方自治の灯台」といわれた、民主的な京都府政を28年にわたって幅広い人たちと共同してささえ、また府内各地で住民本位の自治体の実現にむけて府民と共同してたたかってきました。

 そして、幅広い共同の力で、例えば、京都市内乗り入れの高速道路計画や京都の鴨川にフランス風の橋をかける計画をストップさせるなど、「日本人の心の故郷」といわれる京都のよさをまもってがんばってきました。

 「府民のみなさんと日本共産党の共同が府民の暮らしと京都を守る力です」ーこのスローガンも日本共産党の役割を端的に示したものです。

 私たちは、来年2月の京都市長選挙に全力をあげています。今回の市長選挙ではこれまでを超える幅広い共同が実現し、なんとしても勝つことをめざしてがんばっているところです。世界の歴史都市・京都での勝利は、京都はもちろん、日本、そして世界に大きなインパクトをあたえることになると思います。

③党勢の拡大に一貫して努力してきた点です。

 冒頭にのべましたように、京都の隅々、草の根に根をはる共産党をつくってきたからこそ、大きな政治的役割をはたしてこれたと考えています。京都の、有権者当たりの党員数は、60年代後半以降、全国トップを維持しています。

 同時に、京都の党員数は、80年代には、人口比で1%を突破、2万6千に到達しました。それが今日、政治的には大きな前進をきりひらきながらも、党勢はその当時の約6割となっています。

 従って、私たちは、この党勢を後退から前進へ、若い層のなかでの党建設、世代的継承はまさにいまその時期だという事を党活動の中心課題としてとりくんでいるところです。


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