JCP京都

⑩川端 康成(かわばた やすなり)1899〜1972


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川端康成の文学碑


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氏と北山杉の里の関係を記す碑文


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古都の宣伝ポスターより

 真っ先に浮かぶのは「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「古都」など名作の数々。「優れた感受性で日本人の心の真髄を表現した」作家と評され、日本人初のノーベル文学賞を受賞(1968年)した作家としても有名です。

 なかでも京都を舞台に、育った環境が違う双子の姉妹の出会いと別れをしっとりと描いた「古都」は、当代の人気女優を起用して何度も映画化されました。

 春の花に始まり冬の淡雪で終わる物語は、四季が織りなす美しい自然と京の町並み、伝統の西陣織や葵祭、祇園祭などの行事、人々の暮らしが余すところなく描かれ、同じ京都を舞台にした作品のなかでも秀逸です。京都に住む者はもとより、「日本の京都」「世界の京都」をあらためて新鮮に印象づけました。

 しかし、現実の京都は、川端文学とは裏腹に変貌は著しく、「古都」が映画化(中村登監督)された時に「京都に住み、京都を歩き、京都(関西)のものを食べ、京都をゆっくりと書きたい念願は、年々切々となるが、存命中に果たせるであらうか。あるひは、京都に住んでしまへば、京都の京都らしさが壊れてゆくのを、なげき、かなしみ、苦痛ばかりかもしれない。残された古都のかはりに、人々が新しい「京都」の町をつくってくれさうな気配は、今のところ、ほとんど見られない。もっとも。京都を大切にするのは、京都だけで負える責任ではなく、国の責任でもあり、国民の責任でもある」と、感想を書いています。

 川端作品の文学的評価や値打ちについては、多くの評論家、愛好家が書いています。これまで作品上でしか想像してこなかった川端康成の人柄、業績に、もう一歩近づいた気がしました。

 それは、平和や戦争についても大きな関心を寄せていたことです。

 「世界平和と言論の自由」を掲げた日本ペンクラブの第四代会長に選任された1948(昭和23)年11月、日本の戦争責任者を裁く東京裁判を傍聴。翌49(昭和24)年11月、広島市の招きでペンクラブを代表して原爆被災地を訪れました。

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古都・再会の記念像

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文学碑のある北山杉の里

 その時の気持ちを、妻・秀子さんに宛てた手紙の中で「広島へ来た事ハよかった。起死回生の思ひとも言へる。つまり自分の生の意義を感じたとも言へる。原子爆弾の惨禍について何としても書きたいと思ふ。人類の歴史と道徳のための仕事だ。自分は自分一人のために生きてゐるので無く、一作家として今日生きてゐる覚悟を新たにした。平和の信念も強くなった。来ていい事をした」と書いています。

 1950(昭和25)年4月にもペンクラブの会員と、広島・長崎を訪れました。そしてペンクラブ広島の会主催の「世界平和と文芸講演会」で、「平和宣言」を読み上げました。

 この二度にわたる被災地訪問の帰途、京都の立ち寄っていますが、「広島の原子爆弾の惨禍のあとを見聞した帰りに、古都の風光や古美術を見るのは、矛盾した自分であらうかと、去年の遅れに思ってもみたものだが、今年の春も思ってみた。しかし矛盾しているとは思へないし、やはり一人の私である。広島と京都は今日の日本の両極端かもしれないし、そのやうな二つのものを私が同時に見てゐるわけであろうが、二つともなほよく見たいものである。古美術を見るのが、趣味とか道楽とかではないのは言ふまでもない。切実な生命である」(『川端康成全集』(全十三巻)の「あとがき」より)と書き、戦争や原爆が美しいものとは相容れないことを痛切に実感しました。

 ノーベル文学賞受賞後、湯川秀樹博士らが結成した「世界平和アピール七人委員会」にも参加し、世界平和に寄与しました。

 「人類の歴史と道徳のための仕事」として、作家の役割を自覚し、「広島と京都は今日の日本の両極端かもしれない」、美しいものは「切実な生命」と書いた川端康成でしたが、72歳で自らの命を絶ったのはなぜか。日本国憲法が風前の灯火になろうとしている今日を、あの世からどのように見ているのか。「死んでしまっては何にもならないではないか」と、訴えたい思いに駆られました。(ときこ)

〈ノーベル文学賞〉

 「人類の進歩、発展、人道主義」を掲げるノーベル賞六部門のうちの一つで、「文学の分野においても一つの理念をもって創作してきたものの中で、最も傑出した作品を創作した人」に与えることを目的に制定。

〈世界平和アピール七人委員会〉

 全世界に衝撃を与えた太平洋ビキニ環礁での水爆実験で、核兵器と戦争の廃絶を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表されたのをうけ、1955年11月11日、湯川秀樹氏をはじめ前田多聞、平塚らいてう氏ら7人が結成。その後、川端康成、朝永振一郎、関屋綾子、平山邦夫氏らも加わり、日本国憲法の平和主義に依拠し、国連の強化と武力によらない紛争解決を基盤とした新しい世界秩序と核兵器の速やかな廃絶を求めてきました。今年は結成50周年を記念して小柴昌俊、井上ひさし、大石芳野氏らがアピールを出しました。

2005年12月8日掲載