JCP京都

⑥与謝野晶子(よさのあきこ)1878〜1942


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鞍馬・由岐神社への上り口の左手にある碑。


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晶子生誕100周年を記念して永観堂放生池のほとりに。


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清滝民芸館脇の岸壁にあったが今は橋のたもとに移動されている。

 近代文学の第一人者・与謝野晶子の研究については、これまで多くの方が手がけられ、すぐれた書物も数多く出ています。浅学な私には到底及びそうにもなく、気後れしていましたが、それでも伝えておきたいことが一つ。それは全国的にも京都に一番多いと言われる晶子の歌碑に関してです(すでにご存知の方もあるとは思いますが)。

 京都に晶子の歌碑は、いくつあるかご存知ですか。実に27基を数えます。次いで晶子の生誕地・大阪の堺市。外国ではフランスのパリ、ロシアのウラジオストック、中国の大連、ノルウェーのオスロにあります。ほとんどは京都市山科区在住の富村俊造さん(99歳)が寄贈されたものです。

 富村さんにお話を伺っていると、男性で、しかも自身の生涯をかけてまで晶子に熱烈に傾倒した人はほかにないのでは……と思います。

 富村さんが、初めて晶子の『みだれ髪』を読んだのは10代の頃。「ニキビ面の少年には刺激的」でした。すっかり晶子に魅了され、『みだれ髪』で詠まれた嵯峨野や清滝、清水寺へ毎日のように自転車で走りました。

 軍隊に徴兵されたときも軍服の胸にいつも『みだれ髪』をしのばせていました。「見つかったら“軟弱! ”とぶっ飛ばされたかもしれませんな」。大砲が炸裂する中でも頭をよぎったのは晶子の『君死にたまふこと勿れ』でした。「国運」を賭けた日露戦争で、戦地の弟の無事を祈った晶子の歌は、同じ戦地の富村さんに「犬死はつまらん」の思いを強くさせました。

 富村さんの戦後の生き方を支えたのも晶子でした。染色業用の糊を主とする接着剤を製造する会社を経営。現役時代は「ちょっと変わった社長さん」で、会社の儲けは「みんなで平等に分配する」をモットーに、引退するまで従業員と同じベースの“月給を取る社長”で通しました。


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晶子の夫・鉄幹の父・礼厳
の碑が加悦町にある

 何度も浮き沈みを体験。「もうあかん」と思うたびに、晶子を思いました。「晶子は、関東大震災ですっかり灰になってしまった『源氏物語』の現代語訳を一からやり直し、完成させた。その労苦を思えば私の苦労など何ほどのものか」と思えたのです。

 晶子に本格的に打ち込むようになったのは、会社を息子さんに任せ、「時間とお金にゆとり」ができるようになってから。この場所で晶子が詩歌を詠んだと思うと、「無性に建てたくなる」のです。

 ところが富村さんは、どの歌碑にも、寄贈者「富村」の名前を刻んでいません。それが晶子に心酔する「富村流“美学”」だと言うのです。願いはただ「何百年たってもその時代の人々の中に晶子が生きつづけること」だと。

親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや

すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね
かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ
もとよりいかで思されむ

 「今」を生きる私たちが、この詩歌から思いを馳せるべきはことは何か――。99歳の富村翁の語りに胸が熱くなりました。(ときこ)

2005年7月20日掲載