1月12日京都のまちを女子駅伝が駆け抜けました。「あの日」ー1986年1月19日もそうでした。京都府知事選挙の年でした。
「危篤」の報で、家族・親戚・友人たちが病院にかけつけたのが1月17日。それから2日目、私たちは「なんとか大丈夫」と思いつつありました。
病院の近くが駅伝のコースでした。時間の合間にみにいこうとしていた時でした。午後2時、まちなかの喧噪のなか、時間が止まったかのように、そして枯葉がなんの音もたてずに舞い落ちたように息をひきとられました。「立花昭さん」のことです。
当時41才でした。20代で日本共産党京都府委員会の常任委員をつとめ、現在党書記局長・参議院議員の市田さんともども、すでに京都の党のなかで大きな役割をはたされていました。党内外での人望も抜群のものがありました。
毎年1月、駅伝のシーンをみるとその日のことを思い出します。北海道・網走から出ての「立花さん」の最初の就職先が箱根の学生駅伝の中継でいつもでてくる有名な旅館だったことも記憶に影響しているのかもしれません。
もう早いもので28年になります。妻の武子さんは、「昭さん」がなくなった1年後、亀岡市会議員選挙に立候補。告示日は命日の1月19日でした。その後、今日まで市会議員を務められています。
昨年12月23日のことです。日本共産党の京都府党会議で、京都民報記者の立花亮(りょう)さんが発言しました。立花亮さんはいまや京都民報の中心的働き手です。
「あきら」とパソコンでうつと「昭」も「亮」もでてきます。「立花昭さん」の長男です。「立花さん」がなくなった時、亮さんは小学校1年・6才でした。「立花さん」は京都民報の担当をされていたこともありました。「立花さん」がその場におられたら、どんな思いで「息子」の発言をきかれただろうか、と思います。












