亡くなって改めて、近藤忠孝さんのやった仕事の大きさを知った思いがする。
水俣病などとならんで、日本の公害病裁判の代表であった、イタイイタイ病裁判がたたかわれたのは1968年から71年。
当時の判例を覆した裁判の全面勝訴は、「公害列島」と呼ばれた日本社会の姿を変えた。
大手メディアのほとんどが、弁護団副団長だった近藤さんの死をつたえ、京都新聞は夕刊1面で報道した。
「勝利するためには被害者のいる現地・富山で弁護士として活動することがどうしても必要だ」。近藤さんは一家で当時居住していた東京から富山に移住した。
近藤さんは1932年生まれだから、このとき30代後半。勝利の見通しも容易でない裁判のための移住をささえたご家族のご苦労も大変なものだったろう。
「最も困難なところにいちばん良い仕事がある」をモットーとした近藤さんらしい決断だった。
近藤さんが、「公害の根源を絶つためにも政治の革新を」と参議院議員に立候補されたのも、このモットーの延長だったろう。
74年参院議員に初当選(全国区)、80年再選(同)、86年3選(比例代表区)。参院大蔵委員として消費税反対の論陣をはり、天下の悪税、消費税導入に反対する牛歩戦術の先頭にたった。税務調査による中小業者いじめを追及し、納税者の権利を守るために力をつくした。
私が、「近忠さん」と愛称された、近藤さんの演説を聞いたのは80年。業者の方から「西陣のことをこんなにわかってくれる国会議員がいるのか」と驚かれた。
議員勇退後は、京都を中心に弁護士活動をされた。
府委員会の仕事で、相談にうかがい、丁寧な助言をいただいたことも懐かしい。
「強くて優しかった」と市田書記局長が思い出を書いている。
京都の日本共産党は、比例30万を獲得、井上さんをはじめ5人の当選に責任をはたし、定数2の参議院京都選挙区で98年以来の議席奪還を果たす。歴史を切り開く仕事に挑んでいる。
「最も困難なところにいちばん良い仕事がある」。近藤忠孝さんの励ましの声が聞こえる。(TH)












