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京都府委員会の紹介

1.自民党政治にたいする対決者として

1980年代

 「社公合意」以降、国会運営では「日本共産党をのぞく」体制が十数年にわたって続くことになりました。60年代からきずかれてきた地方政治での日本共産党と社会党との「革新統一」も、80年代にはつぎつぎと覆され、地方自治体の多くで日本共産党をのぞく「オール与党」体制がつくられました。78年時点で、府内45自治体のうち、党が与党の自治体は27ありましたが、89年時点では八幡市だけとなりました。

「戦後政治の総決算」路線との対決

 82年11月に発足した中曽根内閣は、「戦後政治の総決算」をとなえ、アメリカの核先制使用の容認、軍事費の「対GNP比1%枠」の撤廃など軍拡路線の推進を打ち出し、「行革断行」と大型間接税導入の意向を表明しました。

 日本共産党は、中曽根内閣の軍拡と改憲、国民生活犠牲の路線と正面から対決してたたかいました。

 83年6月の参議院選挙は、比例代表制が導入され、政党そのものに投票するはじめての選挙でした。戦前は非合法で、戦後も反共風土の残るなかで、国民が「日本共産党」とどれだけ書いてくれるか、注目されました。党は、比例代表選挙で、マスコミの300万票台という予想をくつがえして416万票(8. 9%)を得、2議席増の5議席を獲得しました。京都でも、比例代表選挙で19万2,983票、得票率21%を獲得し、得票・率とも前回(全国区)を上まわりました。また、選挙区選挙で佐藤昭夫の再選をかちとりました。

 83年8月の衆議院2区補欠選挙では、有田光雄が11万5,093票を獲得しましたが、自民党に2議席独占を許す結果となりました。

 12月の総選挙で、自民党は結党以来最大の36議席を失う大敗北をきっして250議席に激減しました。日本共産党は、自民党への審判に貢献しましたが、2議席減の27議席に後退しました。京都では、1区・2区でそれぞれ複数立候補してたたかいました。1区で梅田勝の議席は回復しましたが、藤原ひろ子を落選させ、2区では「共倒れ」となり、寺前巌の議席を失うという重大な結果となりました。府委員会は、このような失敗を繰り返さないために、情勢判断で不安定要素があれば、思い切った措置をとり、議席確保をはかることを大きな教訓として総括をおこないました。

 大型間接税(売上税)の導入が大きな争点となった86年7月の衆参同時選挙で、中曽根首相自ら「大型間接税はやらない」と宣伝し、自民党は衆議院で304議席を獲得しました。党は、衆議院で議席を維持し、参議院では、比例代表選挙で得票を543万票(9. 5%)にのばして、2議席増の5議席を得ました。京都では、1区で現職だった梅田勝が61票差で惜敗。藤原ひろ子が返り咲き、2区では寺前巌が過去最高を得票し、トップで議席を回復しました。参議院比例区では全国区当時をふくめ過去最高の得票、選挙区でも神谷信之助が議席を確保しました。

 89年7月の参議院選挙では、消費税強行、金権腐敗、農業破壊の自民党政治にきびしい審判が下り、自民党は参議院で過半数を大きく割りました。京都においても自民党は選挙区の議席は維持したものの、比例代表・選挙区選挙とも得票・率ともに激減させました。しかし、党は、選挙直前の6月におこった中国・天安門事件を利用した激しい反共攻撃のもとで、5議席(比例代表4、選挙区1)に後退。京都でも、比例代表選挙で20万670票を獲得しましたが、前回から2万8,578票後退。選挙区選挙で、佐藤昭夫が前回の神谷票から8,297票増やし、過去2番目に高い得票を獲得するなど健闘しましたが、消費税批判票が社会党、連合候補に流れ、現有議席を失う結果となりました。この選挙で「きょうと連合」という「非自民・非共産」をかかげた反共の連合が組織されました。

 党は、反動攻勢のもと、80年代の国政選挙では「一進一退」を余儀なくされました。しかし、80年の「社公合意」によって日本共産党排除の「オール与党」体制ができたもとで、党が唯一の革新野党として自民党の悪政と対決し、国民の利益を守る立場をつらぬいたことは、国政革新の事業にとって重要な意味をもちました。

 社会党は、「社公合意」の右転落路線から、府政での「オール与党」にくみするとともに、85年の京都市長選挙では「ルビコン川を渡る」(社会党府本部委員長)と公言、公然と自民、公明、民社の反動連合に参加しました。社会党は、かつて府議会で21議席をもち第一党の座を占めていましたが、91年の選挙では4議席・第四党に転落するという府民のきびしい審判をうけました。

 その後、社会党(党名を社民党に変更した時期も含めて)は、府議会では99年のいっせい地方選挙で、京都市議会では2003年のいっせい地方選挙で、議席を消滅させました。

府政の反動化を許さないたたかい


15,000人が参加した「新しい民主府政をつくる府民大集会」

 林田、荒巻とつづく自民党府政は、老人医療費の有料化、労働セツルメントの廃止や府立勤労会館などの民間委託、あいつぐ高校授業料の値上げなど福祉・教育切り捨て路線を強行しました。「学研都市建設」や「丹後リゾート構想」、宮津の火力発電所計画などがすすめられ、乱開発やゴルフ場の建設、京都の自然や歴史的まちなみの破壊がすすみました。バブル経済のもとで、京都の地価の上昇率は全国一となりました。また、米核積載可能艦船のあいつぐ舞鶴入港など、日米軍事同盟強化をはかる自民党政府への中央直結ぶりが目立ちました。

 日本共産党は、府民いじめの自民党府政と対決する唯一の政党として、老人医療費有料化や国保料(税)・保育料などの値上げ、高校3原則つぶしと「日の丸」「君が代」の押しつけなどに反対し、京都の自然と景観を守って府民とともにたたかってきました。

 党は、広範な府民と共同して民主府政の再建をめざして、81年6月、各界連絡会(「憲法を暮らしに生かす民主府政を発展させる各界連絡会」)とともに82年知事選挙の候補者として川口是京大教授に出馬を要請。その翌日には1万5千人の参加で「新しい民主府政をつくる府民大集会」が開催されました。川口氏への出馬要請支持決議運動では、前々回の蜷川知事への4,400団体、前回の杉村敏正氏への4,500団体を上回る5,200団体が決議をあげました。82年2月、日本共産党と各界連加盟の36団体が、民主府政の会(「府民本位の新しい民主府政をつくる会」)を結成し、知事選挙は民主府政の会などが推す川口是候補と自民・公明・民社・新自ク・社民連・新政会の推す林田知事との1騎うちとなりました。川口候補は38万8,664票を獲得・健闘しましたが、林田知事が再選されました。

 また、86年知事選では、前年に林田知事が3選不出馬、参議院への「Uターン」を表明。知事選挙史上はじめて社会党が自民党と連合し、自民、公明、民社、社会、新自ク、社民連の推す荒巻副知事との1騎うちとなりました。日本共産党、京都総評知事選対策委員会など52団体が参加する「新しい民主府政の会」は吉田隆行弁護士を候補者として"草の根"からの「要求型選挙」を展開。32万6,932票を獲得し、得票率では前回、前々回を上回る善戦でした。社会党はこの知事選挙以降、「オール与党」体制に完全に組み込まれました。

 自民党政治の悪政とこれに追随する府政のもと、府民との矛盾が大きくなり、暮らしと平和、民主主義をめぐる府民の共同が広がりました。教育の分野では、中曽根内閣が「戦後政治の総決算」路線の一つとしてすすめる「教育臨調」に反対するたたかいや、高校3原則をめぐる運動が大きく展開されました。小学区制、総合制、男女共学制の3原則のもとにきずきあげられてきた京都の教育を根底から変質・破壊する高校教育制度の改悪に反対して、府民レベルの運動が大きく盛り上がりました。82年には「京都の教育を考える府・市民懇談会」や「京都高校卒業生の会」などが結成され、京都教職員組合がよびかけた中学校区単位の教育共闘も136カ所におよび、府内41カ所で集会がひらかれ、84年3月には教育府民大集会が1万3,000人の参加でおこなわれました。党は、臨教審にもとづく教育反動化法案を阻止するため、府委員会や地区委員会に「教育反動化6法案阻止闘争本部」を設置し、教職員組合をはじめとする民主的諸団体・個人とともにたたかいをすすめました。また、80年10月には私学助成条例への直接請求運動がスタート。短期間に70万人の署名が寄せられました。しかし、林田府政はこの願いをふみにじり、府議会では自民・社会・公明・民社・新政が反対し否決しました。


蜷川さんを偲ぶ府民のつどい

 81年2月27日、28年間、自民党の悪政から京都府民の命とくらしを守り、日本の地方政治に不滅の業績を残した蜷川虎三・前知事が亡くなりました。朝日新聞は「『行政の職人』蜷川氏去る」との社説をかかげ、「右傾化と呼ばれる政治潮流が地方自治体をも洗い初めている今こそ、われわれは蜷川氏が追求した『地方自治の本旨』を、もう1度、考えてみる必要がある」と論じました。

 大西良慶・清水寺貫主らのよびかけで追悼事業がすすめられ、4月16日に「蜷川さんを偲ぶ府民のつどい」などが行われました。

 日本共産党は1980年2月、第15回党大会を開き、「社公合意」によって社会党が反共路線に転落したもとで、「無党派の諸勢力との共同を軸に、新しい統一戦線運動をおこす」という方針を決定し、革新統一懇談会の結成を提唱しました。京都では、80年5月に京都平民懇(「日本の平和と民主主義をめざす京都懇談会」)が結成され、トマホーク艦船入港反対、政党法反対、国家機密法阻止、健保・年金改悪反対など、平和・民主主義、生活擁護の国民的要求での共同闘争、統一行動にとりくみました。こうした取り組みを通じて、京都平民懇は、85年には61団体・約42万8,000人の団体・個人を結集し、府内26地域に「地域平民懇」を結成しました。

 第15回党大会は、労働戦線での新しい階級的民主的ナショナルセンターの確立が求められていることを確認し、その原則として、資本からの独立、政党からの独立、労働者の要求の一致にもとづく行動の統一の3つを明らかにしました。その後、労働戦線の再編の中で、87年11月、「同盟」が解散し、同盟を中核として全日本民間労働組合連合会が結成され、89年11月には総評系官公労の一部などを吸収して、連合(「日本労働組合総連合会」)が発足しました。

 こうした右翼的再編の動きに反対して、京都では、87年11月20日、統一労組懇加盟組合と左派労組、28単産による実行委員会が主催した「労働戦線の右より再編、全民労連反対・京都労働者決起集会」が円山音楽堂で1万2,000人の参加でおこなわれ、参加者と広範な府民に大きな確信を与えました。また、中央総評が90年解散を決める中、京都総評は、反自民、反独占、革新統一の方針をかかげました。

 階級的ナショナルセンター、ローカルセンター確立を展望し、活動してきた京都統一労組懇は、春闘をはじめ、大幅賃上げ、労働時間の短縮、人べらし「合理化」反対、消費税粉砕、リクルート疑惑糾明、反核・平和のたたかいなど、労働者、国民の要求の実現めざし、たたかいを広げていきました。

 89年10月、京都総評が発足予定の全労連(「全国労働組合総連合」)への加入を決定。京都総評のたたかうローカルセンターへの発展と「連合京都」の発足によって京都の労働運動は新しい段階にはいりました。

 京都総評は、京都の労働者と府民の利益を守る労働組合連合のただひとつのローカルセンターとして発展・強化をめざすこととなりました。そして、大幅賃上げ、時間短縮、過労死の告発、国鉄清算事業団解雇撤回闘争、また、消費税廃止のたたかい、京都市長選挙、府知事選挙など、要求にもとづく広範な労働組合、団体との共同を広げていきました。

2005年4月19日掲載
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