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京都府委員会の紹介

第五章 80年代の政治革新めざして

80年衆参同時選挙と新たな反共攻撃―革新の本流活動強化

社公合意と社会党右転落のもとで

 79年末の総選挙後、「社公合意」により社会党の右転落がすすんだ。ソ連のアフガニスタンへの侵略は国際情勢を緊張させ、大平内閣は、「西側の一員」としての日米共同作戦態勢の強化をすすめた。80年1月22日に、党と自覚的民主勢力は、環太平洋合同演習への自衛隊の参加に反対する京都決起集会を寒風をついて決行し、80年代の意気高い取り組みを開始した。

 2月に、第15回党大会が開催され、京都では、外国の党代表を歓迎する集会が千人の参加のもとでひらかれた。つづいて3月の第35回府党会議では、社会党右転落のもとでは、さらに強大な党建設の必要が強調された。5月、亀岡に府党学習会館が建設され、府党は「教育立党」へ大きく足をふみだした。

 労働戦線の階級的民主的統一をめざす統一労組懇は、府下22地域に地域統一労組懇を確立し、参加組合員は80年当時7万5,000人から85年には8万5,000人に達し、しだいに本流へと成長した。また、第15回党大会で提唱された「革新統一をめざす懇談会」は、京都でも80年5月25日「日本の平和と民主主義をめざす京都懇談会」(略称、京都平民懇)として結成され、賛同者は個人1,173人、団体16、構成員27万6,229人が参加し、22の地域平民懇も組織された。

初の衆参同時選挙とその教訓

 参院選を前にして社会党は、健保改悪に修正合意するなどしながらも、国会でのなれあい姿勢をかくそうと大平内閣不信任案を出したが、提案者の思惑をこえてこれが成立し、衆議院は解散され、戦後史上はじめての衆参同時選挙が6月22日におこなわれた。府党は、この選挙で初めて1、2区ともに複数立候補でたたかった。選挙の結果は、1区で藤原ひろ子が5万千3百87票の4位で当選したが、梅田勝は5万763票で、わずか595票差の次点で惜敗した。2区では、寺前巌は10万4,122票で4位当選し、有田光雄は4万9,431票で7位となった。社会党は、1、2区ともに落選して京都での国会議員の議席をゼロとした。自民党は大平首相の突然の死去も反映して、前回落選した奥田、前尾が上位で当選し、全国的に自民党は安定過半数を回復し、わが党は後退した。参議院選では、地方区の神谷信之助は29万7,745票と過去最高の得票で当選し、全国区の近藤忠孝も当選を果たした。しかし、全国区票は地方区の57%であり重大な弱点を残した。選挙結果は「大丈夫論」や「なんとかなる論」の危険性、「全国区優先」の貫徹の重要性、機関紙後退の重大性などの教訓をもたらした。7月に開催された4中総は、情勢の特質を「保守勢力が戦後第二の反動攻勢にでている時期」と特徴づけるとともに、これを「第二の反動期」と呼ばないのは、今後の党のたたかいにかかっているからとして、たたかいの展望を示した。

 選挙後成立した鈴木内閣は、反動的諸政策の実行にのりだし、国会では、公民両党や社会党の同調によるなれあいによって健保改悪などの悪法を強行し、さらに臨調「行革」路線をわが党の反対をおしきってすすめた。こうしたなかで10月、安保、政党ぬきを策した総評の妨害をのりこえて10.21全国統一行動が成功し、京都でも、社会党府本部の「絶縁声明」以来、5年ぶりの統一行動がおこなわれ、円山集会に約1万人が結集して、大きく盛り上がった。11月には、「軍事費削ってくらしと福祉・教育の充実を」の国民運動が全国的に大きく高揚し、京都でも5千人の大集会が成功した。これらの闘争の高揚は反動化に抗しての国政革新を求める国民のエネルギーの大きさを示したものであり、第二の反動攻勢が決して「一路反動化」ではないことを明らかにし、国民のたたかいをはげました。

82年知事選挙と統一戦線めざす闘争―平和・革新の旗高く

 1980(昭和55)年12月7日、宇治市長選がおこなわれたが、島田市長は立候補を断念し、革新共同の林つとむ候補が41%の得票を獲得して善戦したが敗北し、重要な革新自治体を失った。社公民は、自民党の池本を支持し、革新分断、革新市政転覆に手を貸し、府政奪還にも新たな困難をつくった。

 1981(昭和56)年2月27日、蜷川虎三前知事が死去した。28年間、知事として全国の革新の灯台としてのその業績は不滅であり、多くの府民が別れを惜しんだ。

林田府政と対決し大衆運動が新たな盛り上がり

 4月、臨時府会は、前年以来集められた私学助成条例制定要求署名が70万に達したにもかかわらず、府民の切実な要求を十分な審議もせずに否決し、府民に背をむけた。こうしたなかで、4月27日に、党と各界連が知事選に関しての第一回の協議をおこなった。4月28日の全国統一行動、5月27日の、核持ち込み抗議緊急集会、さらに7月30日から8月5日の平和のための戦争展への7万人の参加など反核、平和のたたかいも新たな盛り上がりを示した。

 7月6日に病気で倒れて療養中の舩橋市長が辞表を提出し、急遽市長選挙がおこなわれることになり、党は今川正彦京都市助役の革新市政を継承する立場での出馬表明を受けてこれを支持した。しかし、結果として自・公・民3党が今川候補に相乗りし対決点のわかりにくい選挙となった。さらに新自由クラブの加地和(元1区選出衆議院議員・弁護士)が立候補したが、8月30日の投票で、今川正彦が当選した。同時におこなわれた上京区での市議補選では浜屋洋が惜敗した。

 9月2日に、府委員会は、「真の平和綱領のために」の普及と知事選での革新統一をめざして各界の人士との懇談会をひらき、つづいて9月8日に、党と各界連との連絡会議をおこない、82年の知事選へ向けてねばり強い活動をおこなった。反動陣営の側も12月7日に、自公民が知事選で連絡会議をもつなど70年知事選とよく似た政党の組み合わせで反共連合をつくり林田再選準備をすすめ、翌年2月20日には、自公民3党に新自由クラブ、社民連が参加した「活力ある京都をつくる会」をつくり総決起集会をひらいた。

 1982(昭和57)年1月25日、党と各界連が府政政策大綱案で合意し、翌26日、各界連は府立体育館で知事選勝利をめざす府民大集会をひらき、1万5,000人が結集した。「会」は、集会までに知事候補の決定ができるよう社会党との協議を求めたが、社会党は会談自身をも拒否し、候補者を発表するには至らなかった。2月6日に、やっと党を含めた36団体が参加した「新しい民主府政をつくる会」が発足し、3月3日、京大教授を辞して立候補を決意した川口是を推した。

82年知事選挙とその教訓

 4月11日におこなわれた知事選の結果は、川口候補が約39万の得票、得票率37.2%で及ばず、反動知事の再選を許した。この選挙で公明、民社の両党が公然と自民党と連合し、ここでも、新与党化路線が完成したことを明確にした。また、社会党は府本部としては「反自民・反林田・自主投票」という態度をとり、「社公合意」の枠組みのもとで、革新統一戦線から脱落した。総評は川口支持を決定したが、数次の大会休会の事態のなかで十分な力を発揮することができなかった。反動陣営は政策論争をさけてもっぱら反共攻撃を強め、全国から140人をこえる国会議員を投入するなど、行政、業界、企業ぐるみで猛烈な攻撃をかけてきた。これにたいし、民主勢力の側は、府民の平和と暮らしを守る諸政策と民主府政の再建を訴えてたたかった。その結果、林田陣営は、総選挙票からみると約11万5,000票後退し、逆に川口陣営は共産党の得票を5割以上上回った。京都総評、社会党の一部党員が川口氏支持で活動するという、革新統一への新しい動きを示した。また同時におこなわれた府議補選では、中京の松家幸男、山科の北山忠生、舞鶴の藤原敬一の3候補はともに敗北した。

第16回党大会と強大な党建設めざして―不屈の歩みに学び前進

党の拡大強化が求められる情勢

 82年知事選で林田応援のために京都にきた鈴木首相は「80年代は共産対保守・中道の時代になると思う」と予言したが、選挙戦の展開はそれを実証した。しかし革新分断の戦略として自民党が中道連合に頼らなければならないことは、彼らが大差で勝利したとはいえ、4つの破たんに示される弱さのあらわれでもあった。同時に、革新府政をとりもどすためには、統一戦線の推進力としての党がより強大になることが求められた。

 4月17日の府委員会総会は、知事選の教訓の上にたって、「党創立60周年・第16回党大会記念・日本共産党躍進大運動」の具体化を決定した。5月22、23両日にひらかれた第37回府党会議は、必ずこの大運動を成功させ、つぎの国政選挙では勝利者としてあらわれるように、強大な党を建設していくことを決定し、府委員72人、准府委員24人を選出し、委員長にはひきつづき安井真造が選ばれた。

 前回の府党会議から多くの党員が亡くなったが、そのなかには府党の古い幹部もいた。1981(昭和56)年10月12日には、顧問山田幸次が、つづいて同年11月11日には、顧問笹井武夫が死去した。山田は京都市職委員長、党京都市委員会書記(委員長)、府常任委員、市会議員団長などを歴任、笹井は電産京都支部委員長、パージ後、党府常任委員、衆院2区候補、府委員長を歴任、ともに党の建設に貢献した同志であった。府委員会はそれぞれ追悼式をおこなった。

 82(昭和57)年6月の第二回国連軍縮特別総会にむけて、反核・平和の運動はひきつづき前進した。3月の舞鶴での日本海集会、4.28円山集会、5.23東京行動、6.23全国統一行動へと大きな行動が組織された。軍縮総会へむけての核兵器全面禁止軍縮を要求する3千万署名運動と党独自の2つの署名運動も積極的に展開した。7月、京都原水協は府・市会にむけて「非核宣言」を求める請願署名運動を提起した。8月1日には、第28回日本母親大会が京都でひらかれ、核戦争の危険に対して平和を願う婦人運動も高まった。8月3日から10日までひらかれた「平和のための京都戦争展」には8万人が入場した。8月5日の原水禁世界大会には京都から4百53人の代表が参加し、原水禁運動を前進させた。

 また、この年2月28日、全解連は水平社創立60周年記念集会を部落解放運動ゆかりの地(京都会館)でおこなった。

 7月3日、京都地評臨時大会は、新産別らが入場を拒否したため流会し、その機能をいっそう低めた。この点でも党の責務と統一労組懇の役割はますます大きくなった。

受け継がれる進歩と革新の伝統

 こうしたなかで日本共産党は創立60周年を迎えた。府党は、これを記念し、7月16日に、京都会館で盛大に記念集会をひらいた。また、永年党員懇親会や「京都民報」紙上で「続・礎をきずいた人びと」の3カ月連載などの記念行事もおこない「府党の60年のあゆみ」をまとめる記念企画を決めた。

 7月18日に開催された、第38回臨時府党会議では、第16回党大会の議案を討議し、大会代議員を選出した。大会をめざす躍進大運動は大会終日までつづけられ、府党は、3カ月半にわたる全党の奮闘によって日刊紙、日曜版あわせて4万2,886部を拡大した。党員は人口対比で1%をこえて前進した。

 60年前、京都で初めての党会議がひらかれたときは、谷口善太郎の思い出によれば「裸の電燈が一つポツンと屋根裏からぶらさがっていた」という小さな部屋でわずか6人の党員が参加したにすぎなかった。1945年、敗戦直後の府党は数十人の党員によって再建された。それが今日、3万の党を建設しようという目標をかかげるところまで発展しつつある。機関紙読者は、1961年の第8回党大会のときと比べると、日刊紙は9.3倍以上、日曜版は実に13.4倍以上となった。国会議員は、当時、衆議院1人から衆参4人へ、地方議員は29人から162人となり、府会は4人から15人、京都市会は8人から19人へと躍進し、府下では空白議会をなくし全自治体に議員をもち、無所属を除き、政党としては第一党の地位に前進した。今日、京都府党は、京都の現実政治を積極的に動かす政党へと成長したのである。この京都における日本共産党の60年の歴史は、府党が、京都における進歩と革新の伝統をうけつぎ、いかなる弾圧や困難にもめげず、不屈にたたかいぬいた結果である。

 党創立60周年にあたって府党のあゆみをふりかえり、この歴史の教訓を学び、さらに強大な党を建設し、革新統一戦線の結成と政治の革新めざして前進することは京都府党の府民にたいする光栄ある責務である。

(おわり)

2005年9月29日掲載
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