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京都府委員会の紹介

第二章 戦後の党再建と京都のたたかい

第二部 60年の歩み

戦後の党の再建―ただちに民主化のたたかい

 1945(昭和20)年8月15日、日本帝国主義の降伏によって戦争は終結した。9月、京都には占領軍として米第六軍が進駐した。10月、党中央の幹部が出獄し、「赤旗」(「あかはた」)が再刊されるなかで京都でも党再建がすすんだ。

 最初に小松雄一郎らが党中央と連絡をとり、さらに、河上謙一郎は宮城から出獄した竹中恒三郎を迎え、党中央より黒木重徳がオルグとして派遣され、活動家の結集をはかった。

運動の高揚の中で再建促進会議

 10月21日、解放運動犠牲者同志出獄歓迎集会が、京都新聞会館でひらかれ、超満員の盛況のなかで、徳田球一、竹中恒三郎、黒木重徳、金天海らが演説、能勢克男、小林為太郎らが熱烈な歓迎の辞をのべた。この集会では、人民解放連盟の結成が提唱された。

 党は、食糧危機突破の集会や労働組合の組織化と運動の前進のために献身的な奮闘をおこなった。11月の党全国協議会に京都の代表をおくり、つづいて12月の第四回党大会へ代議員を送り、党大会のあと、京都地方委員会をつくるための促進委員を選び、翌年2月の第五回党大会へ代議員を送った。

 党中央から山辺健太郎が指導に入り、小松雄一郎、絲屋寿雄、小柳津恒、岡本【しゅう】一(※人名表記に関するお詫び)、川上謙一郎、細川三酉、若杉光夫らが結集し、初めは党事務所を和風書院のなかに、つづいて絲屋宅に移り、そして河原町5条下ルの民家に「赤旗」京都支局を置き、党勢の拡大をはかった。さらに、野坂参三帰国歓迎の集会が、2月13日に春日小学校、14日は新聞会館、15日は宇治昭和館で盛大におこなわれた。このころ、太田典礼が入党した。

 3月6、7の両日、和風書院で府党再建促進のための全体会議がひらかれ、促進委員に、小松雄一郎、赤石円三郎、岡本【しゅう】一、若杉光夫、秋田清二郎、余愚川、中林芳夫、小柳津恒、絲屋寿雄、中井信太郎、泉隆の11人が選出され、4月に地方党会議をひらくことを決定、党勢の拡大をはかった。府下では、河田賢治、谷口善太郎、桂長一、人見亨、加藤宗一、長壁民之助、山中平治らが活動をはじめた。

第一回党会議と「京都のハタ」創刊

 1946(昭和21)年4月10日、戦後最初の総選挙がたたかわれ、2名連記制のもとで党は、太田典礼、安田徳太郎、小林為太郎の3人が立候補し、計、6万532票、5.4%の得票率を得たが、太田は、最下位当選者の辻井民之助(社会党)と1,104票差の次点となり、3人共倒れに終わった。この選挙では、有権者名簿の不備で投票できなかった人も多くでた。

 4月14日、円山音楽堂で、京都民主戦線主催の幤原内閣打倒再選挙要求市民大会が1万人の参加でひらかれた。このとき米占領軍がデモを弾圧したことは、その本質を示した点で重要な事件となった。

 1946年4月21日、再建された京都府党の第一回地方党会議が、京都YMCA会館でひらかれた。つづいて、6月1日には、地方委員会機関紙「京都のハタ」を創刊し、6月2日に北部地区、6月5日に伏見地区、6月24日には西部地区がそれぞれ党会議をひらき、党再建を軌道にのせた。しかし、戦後、急速に民主化が高揚したなかで、党内の矛盾、対立もつよく、不団結が生まれていたため党中央は選出した役員を承認せず、6月、党中央委員・春日正一を責任者として派遣し、たてなおしをはかり、9月19日、第二回地方党会議がひらかれ、河田賢治、北牧孝三らを新しく役員として選出して、地方委員会の補強をおこなった。

日本の民主的再建と占領支配との闘争―米占領軍の弾圧に抗して

 日本共産党が公然と活動を開始したことは、労働者と人民の闘争を急速に高揚させた。1946年1月26日、京都では、共産党、社会党、自由党、人民解放連盟などが主権在民の憲法を要求することを基本にして民主戦線京都協議会を結成した。2月21日、京都民主戦線を結成し、隠匿物資の追及、各地の労働運動支援、食糧危機突破の市民運動なども取り組み、持続的共闘組織として力を発揮した。

労働者の組織とたたかいの広がり

 労働戦線では、戦前の運動の経験者を中心に急速に闘争と組織が広がった。46年1月27日、総同盟京都連合会は、24組合1万4千人で結成され、6月7日には京都市労連、6月9日には京都金属労働組合連合会(KKR、47組合1万3千人)、9月には総同盟京都金属産業労組連合会(SKR)、10月には京都府教員組合、11月には府庁職員組合などがつぎつぎと結成され、市電、市職、教員、国鉄、電産、全逓、京大、島津、日電、私鉄など重要経営での党建設も急速にすすんだ。教組と市職での前進は、全国的な教員や自治体労働者の団結を促進するうえでも重要な役割を果たした。

 農民運動では、1946年2月に京都農民協議会が結成され、農地改革、強制供出反対、飯米よこせ、重税反対などのたたかいが発展し、47年1月には、日農京都府連と合同して、当時2万人の農民を組織した。

 学園では、府立医大の民主化闘争、京大同学会の改組など全学生の参加する自治会活動がつよまり、さらに、京都の学者、研究者の間では民主主義科学者協会京都支部がつくられ、多くの人が結集した。立命館大学の民主化もはじまり、多くの先進的学生が育った。

 党は、再建されたこれらの民主的大衆組織と協力し、たたかいの先頭にたった。こうした日本の民主的再建をめざす運動の高まりのなかで、米占領軍は露骨な干渉と弾圧にのりだし、46年9月の医大ストへの弾圧、翌年の2.1スト中止命令、島津製作所、井上電機、京都機械、第二日赤など多くの労組に直接介入して活動家を逮捕するなど激しい弾圧がつづいた。しかし、2.1ストをめざした労働組合の巨大なエネルギーは、全労連を結成し、京都でも産別京都会議、全官公京都地協、京都金属労働組合連合会、総同盟京都府連の4者によって、4月7日、京都地方労働組合協議会(7万4千人)を結成させた。

 1947(昭和22)年1月の党の第二回全国協議会をうけて、2月、第三回地方党会議がひらかれ、地方委員を選出、委員長に河田賢治が選ばれた。党は占領軍の弾圧や分裂工作に抗して、大衆のあいだでの活動を精力的にすすめ、党の組織を拡大し、市民の中でも不当課税反対同盟などの市民運動が新しく取り組まれ、農村でも、総選挙にむけて空白をなくすため、わらじ行脚の文化工作隊が候補者河田を先頭にくりひろげられた。

地方議会に公然と初の議席獲得

 1947年4月、新憲法下で初めてのいっせい地方選挙がおこなわれた。4月5日の知事選で党は、救国民主連盟京都支部(共、社、京都民主党、日農、総同盟、部落解放委員会等が参加)のなかで統一候補をつくるため努力したが実現せず、河田賢治をたててたたかった。地方議会では、京都市議に安井信雄(左京区)、槇島村議(現宇治市)に岡田満蔵、棚倉村議(現山城町)に矢島藤太郎、市場村議(現野田川町)に長壁民之助の4人が当選、地方議会に党が初めて公然と進出した。

 4月20日の、第一回の参議院通常選挙では、党からは能勢克男が立候補、2万3,776票、得票率4.83%を獲得したが及ばず、社会党の蟹江邦彦らが当選した。また、このとき、マッカーサーが、衆議院の解散を命令したので、総選挙も4月25日投票でおこなわれ、党は1区に小林為太郎、2区に谷口善太郎をたててたたかったが、合計で1万5,545票、得票率2.58%にとどまった。

 この一連の選挙戦で、米占領軍は公然と干渉した。知事選につづいて舞鶴から府議選に立候補していた河田は演説会出席途上に不当逮捕され、府委員会事務所も強制捜査をうけるなどきびしい干渉、弾圧をのりこえての選挙戦であった。

 47年11月、第六回党大会へむけて第四回地方党会議がひらかれ、代議員を選出し、アメリカの占領支配の長期化と日本の軍事基地化の危険にたいするたたかいが重視された。48(昭和23)年5月の第五回府党会議では、新しい府委員会を選出し、委員長に河田賢治を選んだ。

総選挙での躍進と大衆運動の前進―谷口(1区)河田(2区)が国会議席

都市での党組織が大きく前進

 1947(昭和22)年の総選挙で第一党となった社会党は、民主党・国民協同党と連立し党首の片山哲を首班とする片山内閣をつくったが公約を裏切り、実質賃金を戦前より引き下げる1,800円ベースを押しつけるなど国民に耐乏生活を強要し、独占資本主義復活の政策を推進した。そのため国民の批判をうけ、48年2月に総辞職した。しかし、社会党は、そのあとも民主党芦田均を首相とする3党連立内閣に入閣した。この内閣がマッカーサー書簡にもとづく政令201号で全官公労働者から団体交渉権とストライキ権などをはく奪したため、社会党はますます勤労者から離れた。党はこれらの攻撃に屈せず勇敢にたたかった。また失業者の組織化や不当課税に反対する生活を守る会や納税民主化同盟などの市民運動に取り組み、都市での党組織を大きく拡大した。党府委員会は、京都市内の各行政区にオルグを配置し、細胞群委員会を組織し、機関紙「京都のハタ」を再刊した。

 48年10月、教育委員の公選がおこなわれ、党は府教育委員に谷口善太郎、京都市教育委員に小柳津恒をたててたたかった。

 10月6日、社会党から入閣していた西尾末広が逮捕され、昭和電工をめぐる大汚職事件が発覚した。この昭電疑獄で芦田内閣が倒れ、民主自由党の第二次吉田内閣が発足したあと、49(昭和24)年1月、総選挙がおこなわれた。党は、1区に谷口善太郎、2区に河田賢治をたて、1区の谷口は50,194票で第二位、2区の河田は33,910票で第五位、合計84,104票、得票率12.9%を獲得し、1区、2区ともに当選して京都で初の共産党の国会議席をかちとった。社会党は全国的にも大敗し、京都では、1、2区5人から1区1人に激減した。この年1月、かつて社会党府連創立にも参加し、府連幹部だった津司市太郎(後に党京都市議)が共産党に入党した。

 総選挙で全国的にも35人に躍進した党は、同年2月、右京区でおこなわれた府議補欠選挙でも、春藤誠1を当選させ、府会にも初議席を獲得した。

 こうした前進のもとで、49年3月、文化会館で、第六回府党会議がひらかれ、12人の府委員と5人の府委員候補を選出し、委員長に岡本【しゅう】一を選んだ。府党は、この1年に党勢を約倍加し、党員数は4,100人に達した。

戦後第一の反動期と反共攻撃

 この年、中国革命の発展と日本共産党の躍進に直面してアメリカの対日政策はますます凶暴化し、アメリカの目下の同盟者となった日本独占資本主義もドッジ・プランによる首切り「合理化」を強行、重要産業から党員と活動家を追放した。京都では、島津をはじめ寿工業、日本輸送機、三菱、松下など270事業所で11,000余人の首切りが強行された。続いて7月には国鉄、8月には市交通局、市役所、全逓など官公労、10月には教職員組合とあいついで大量の行政整理、首切りが松川事件などの謀略事件の攻撃のもとで強行された。

 この反共攻撃のなかで、共産党の組織と党員を登録制にする「団体等規制令」が公布され、また、占領軍の軍政部の命令によって、京都市会で「公安条例」が強行されるなど、民主運動への不当な弾圧が行われたことは、反共攻撃とのたたかいにおける重要な教訓を示し民主主義を守るうえで重要な出来事であった。

 こうした攻撃にたいして、島津や飯野造船などでは激しい反対闘争が展開されたが最後は押し切られた。しかし、市労連や教組などでは追放された幹部をかかえて組合の統一を守ってたたかった。京都の労働組合は、この1年間で組合数で279(34%)、組合員数で約30,400人(23%)を失うという大打撃をうけた。

 この年、京都府委員会事務所は、河原町六条の延寿寺とともに、中京区松原通壬生川西入北側の専売公社前にもつくり、府委員会の看板をかかげた事務所をもった。

統一戦線運動と民主府・市政の誕生―"反共は戦争前夜の声"

 戦後の京都府党の活動にとって重要なことは、統一戦線運動を一貫して重視してとりくんだことである。そして、この努力は、1950(昭和25)年1月、京都市長選挙での全京都民主戦線統一会議(略称・民統)の結成につながった。

市長選を契機に民統を結成

 1月6日、神戸市長が、地方行政調査委員に就任するために辞任すると党は、この市長選挙を統一してたたかうよう全民主勢力に訴えた。1月21日、全京都労働組合統一会議準備会は、全京都労働組合統一会議(労統)と全京都民主戦線統一会議(民統)を結成すること、京都市長候補には高山義3(弁護士)を推すことを決定した。社会党は共産党との共闘を拒否して、高山を社会党の公認候補にすることを固執したため、市長選挙が告示されても統一は実現しなかった。しかし、党はねばりづよく統一支持の運動を大衆的にすすめ、ついに告示後の1月25日、民統結成にこぎつけ、市長選の勝利をかちとった。このとき社会党の幹部が公式の席上で共産党に「馬の足になること」を要求するなど、きわめて不正常な共闘であったが、党は選挙勝利のために献身した。

 ついで4月には、市長選で和辻派についた木村知事が選挙違反で辞任したため、知事選挙がたたかわれた。民統は3月18日、市長選勝利祝賀、生活危機突破市民大会をひらき、知事候補に蜷川虎三(元京大教授、前中小企業庁長官)を推した。社会党はこのときも社会党公認に固執し高山と同様に社会党公認、民統推薦ということになったが、選挙闘争では党と自覚的民主勢力の奮闘により市長選挙以上に盛り上がり、社会党の反共セクトは大きく打破された。4月3日、円山での民統主催でおこなわれた吉田内閣打倒人民大会は超満員となり、この大会で、蜷川虎三は、「反共は戦争前夜の声」と叫び、府民の平和へのねがいと統一候補の立場を明確にして当選した。以来28年にわたる全国の革新の灯台としての民主府政のスタートを切った。

 この2つの首長選挙は、党中央と前年1月に結成された党関西地方委員会の指導による全関西的な支援によって大きく盛り上がった。知事選直後のメーデーで独立、平和、全面講和がスローガンとしてかかげられ、蜷川、高山、大山郁夫らが先頭にたった。

 知事選の翌日、社会党が参院選地方区に馬谷憲太郎を推すことを決定したことにたいして、民統は2つの首長選の教訓から革新無所属の大山郁夫を支持することを確認して、社会党に再考を求めたが社会党は応じなかった。5月2日、民統は統一を破らないことを条件に大山、馬谷の2人を推すことを決めたが、選挙の結果は大山が当選し、社会党のセクト主義への府民の批判は明らかであった。この選挙中にも日本電池では大量首切りが発表されるなど労働者への攻撃はひきつづき強められ、さらに、教組での粛正同盟による分裂など労働組合の統一に重大な攻撃がかけられていたが、階級的、民主的な労働組合をはじめとした民主勢力による統一への戦闘的な取り組みは、この選挙の勝利に大きく貢献した。

占領軍の弾圧と民統の教訓

 参院選の直後、6月6日、米占領軍による日本共産党中央への弾圧があり、6月13日、民統は、吉田内閣打倒、共産党弾圧反対、大山郁夫激励大会をひらいたが、すでに総同盟や全京金は反共セクト主義の立場に脱落していた。

 1951(昭和26)年4月の地方選挙では、京都市会に共産党議員も含めて7人の民統候補が当選、府会では5人の民統議員団が結成され、府下にも民統がつくられたが、朝鮮戦争、党の50年問題の発生と社会党の脱落など弾圧と分裂のきびしい情勢に直面して、民統としては大衆的な統一戦線運動の展開はできず、52年には、実質的に消滅した。民統は、京都の党と民主勢力が統一戦線に結集し、初めて革新自治体をつくり、現実政治を動かした点で重大な意義をもつものであった。しかし、社会党のセクト主義、持続的共闘の困難、その後の高山の背信などに示されるように、候補者、政策、組織にわたる厳密な選挙協定をもてなかった弱点や持続的共闘へ高める党の力量が不足していたことが教訓的であった。

「50年問題」と府党組織―打撃のりこえ統一回復へ

米占領軍の弾圧の下でたたかう

 民統による民主府・市政の誕生は、朝鮮戦争前夜での歴史的な勝利であった。しかし、当時の党は「50年問題」、すなわち武装闘争の押しつけをはかり、日本共産党の運動を組織的にも自分たちの支配と統制のもとにおこうとしたスターリンを先頭としたソ連・中国合作の干渉と介入、それに原因する党の分裂と混乱に直面していた。朝鮮戦争下での日本共産党への弾圧が党活動を一層困難なものにしていた。アメリカ占領軍による中央委員会と「アカハタ」への弾圧につづいて、府委員会機関紙「京都のハタ」も発行禁止となった。京都選出の国会議員・谷口、河田もあいついで占領軍による公職追放にあった。官公庁とともに、新聞、電産、映画、日通、島津など民間産業全体にレッド・パージが広がり、職場から不当に首切られた党員、支持者は約30企業、3百人に達し、多くの職場で党組織が破壊され、これを機会に労働組合に「民同」の影響がつよまった。51年5月1日のメーデーは分裂し、5月27日には、分裂組織として、京都総評(14単産、約3万5千人)がつくられた。

 当時、朝鮮戦争にたいするアメリカの武力介入に反対するビラ配布や集会、デモなどがきびしく弾圧されたが、党は勇敢に精力的にたたかった。50年12月9日の円山事件は対日理事会でも問題となった大きな弾圧事件であったが、たたかいは困難をきわめた。50年6月7日、スターリンの意をうけた徳田・野坂分派がマッカーサーの弾圧を口実に党中央委員会を解体させた。徳田らはクーデター的手法で「臨時中央指導部」を指名し、全国の党組織を無理やりその指導下に引き込み、従わぬ党員・党組織を排除し、党の分裂を中央から地方へと拡大させた。分裂は全国的に波及、京都でも、府、地区、群、細胞の段階にまで及んだ。さらに、徳田・野坂分派が「大会に準ずる」ものとして51年2月に「第四回全国協議会(4全協)」、同年10月に「第五回全国協議会(5全協)」をひらき「日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とした「51年文書」と「軍事方針」を採択するとともに、党の分裂と中央委員会の解体を正当化した。さらに極左冒険主義に反対し党の統一を主張していた党組織や党員への批判を「スパイ分派の粉砕」と位置づけたことも、党活動を一層困難なものにした。

 このような困難な「50年問題」の時期でも、党分裂と干渉の真相を知ることのなかった多くの党員と党組織は、第六回党大会でかかげた独立と平和のためのたたかいを献身的におしすすめた。京都府党組織は、民統による選挙の勝利でかちとった政治的影響力のもとで多様な活動を展開した。全面講和や原子兵器の無条件禁止を要求する署名運動は積極的にすすめられ、ストックホルムアピール、ベルリンアピールの署名は京都で約80万集められ、京大では原爆展が取り組まれ、府下にも広がり大きく成功した。

 上林の米よこせ闘争、南山城、桂、若狭湾などの基地反対闘争、53年南山城水害救援の活動、中国からの帰国者受け入れの活動などでも広い統一が実現した。

 レッドパージによって党組織の多くが破壊されたが、新しい入党者により再建された。53年10月には、全京都労組代表者会議が組織され、同年12月の京都総評大会では、統一派が役員に進出した。また、この間、全日自労の組織化や民主的診療所の建設がすすみ、51年から55年の5年間に16の診療所が建設された。税金闘争では民商の前身となった生活を守る会など市民組織が大きく前進し、さらに多面的な要求もとりあげ、企業組合や保険医協会の組織も広がり、医師会、府下青年団の民主化も前進した。うたごえ、労音、労映などの各種サークル活動も幅広い層のなかに発展した。学生運動では、53年11月、京都で学園復興会議がひらかれた。11月11日、立命大でのわだつみ像の建立にあたっての歓迎行進に合流しようとした学生が荒神橋において警官隊によって、突き落とされるなどの弾圧に抗してたたかいがすすめられた。同年12月には旭ケ丘中学闘争がおこり、全国的に影響をあたえる大闘争に発展し、後の勤評反対闘争とともに京都における民主教育を守る歴史的闘争となった。

 民統勝利の影響は、地方選挙にもあらわれ、51年4月の府会選挙では党は前回ゼロから3人、京都市会では1人から2人、55年4月の選挙では、府会は4人、市会は5人へと議席を伸ばした。しかし、民統から京都市長になった高山は、反動の強まりのなかで急速に動揺して、51年訪米ののち態度を変化させ、51年末の京交スト、52年7月の区役所と水道のストで市労連幹部の大量処分をおこない、保守反動へ急転落した。これは、京都府が54年の深刻な財政危機のとき、党と民主勢力とともに上京し、政府交渉の先頭にたって6億円の緊急融資をかちとり、民主府政を守りぬいた蜷川知事の姿勢と好対照であり、革新首長のすすむ2つの道の典型として全国的にも教訓となった。

党と民主勢力に大きな損失招く

 国政選挙では、党の分裂と極左冒険主義の誤りは大きな損失をもたらした。52年10月の総選挙では、1区で谷口善太郎は2万6,392票を獲得したが、159票の僅差で次点となり、2区では、井上武夫が立候補、1万5百54票、十位で敗れた。全国的には前回の約3百万から90万に激減し、衆議院の議席はゼロになった。半年後の選挙では、谷口は病気で岡本【しゅう】一が立候補したが2万2,896票、7位にとどまり、2区では、立候補を見送り、事実上、社会党候補を支持した。これは同年4月の参院選で社会党の竹中勝男を政策、組織協定なしに支持したのと同様の無原則的な誤りであった。55年2月の総選挙では、1区谷口は、3万3,440票を獲得したが次点で惜敗、2区岡本は1万1,952票、8位で敗れた。

 「50年問題」は、深刻な損失をもたらした。実情を知ることもなく、スターリンの干渉作戦と分派の活動にまきこまれていった党員と党組織は、活動を広げようにも国民的な信頼をえられず、逆に支持を失うというつらくきびしい党生活を余儀なくされた。不当な除名処分を受けたり、党員としての誇りと名誉を傷つけられて党に絶望して離党した党員も少なくなく、1949年には4千100人に達していた京都の党員数は、統一回復への1歩となった1955年7月の「6全協」の段階では1千数百人へと大きく後退した。

 干渉と武装闘争路線の押しつけ、これに呼応した党のっとりの画策は、日本国民からのきびしい拒絶にあって破綻した。「6全協」は、徳田・野坂分派が勝手に開いた「全国協議会」を引き継ぐ形をとった形式のうえでも、「51年文書」の承認を党の統一の前提とするなど内容のうえでも重大な問題点を含んでいたが、極左冒険主義の一掃を明確にし、徳田たちに排除された宮本顕治らも出席して、党が分裂状態を克服する第一歩となった。


しゅう(ぎょうにんべんに秀)※人名表記に関するお詫び:岡本【しゅう】一氏の【しゅう】の漢字は、「ぎょうにんべん」に「秀でる」の「秀」の字ですが、パソコンなどでは表示できない文字です。ご了承ください。

2005年8月8日掲載
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