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京都府委員会の紹介

2部 京都府党60年の歩み(一部改訂)

第一章 日本共産党の創立と京都における戦前のたたかい

第二部 60年の歩み

党創立当時の京都のたたかいと伝統―高揚する労働農民運動

 1922(大正11)年7月15日、わが国の進歩と革命の伝統をうけついで、日本共産党が創立されると、京都でも、自由民権運動、労働組合運動、農民運動、社会主義運動などの豊富な進歩と民主主義の伝統をうけついだ先覚者たちによって党がつくられた。

 当時は、第一次世界大戦後の、不景気と失業などで京都においても働く人たちにとって苦しい時代であった。その頃の「日出新聞」は、「西陣織物界は操業短縮により約1千人の職工が失業、同じく丹後機業地においても休機続出、伏見町の友禅業者は休業1カ月の後、一時金を支給して職工約500人を全員解雇。さらに清水焼関係でも問屋の休業通告により窯元は職工を解雇している。11月には、府下の製糸家が綾部に集まり78日間の休業断行」というように重大な事態が続発したことを報道している。

 1920(大正9)年当時の京都の「産業別従事者数」は、就業人口約63万人、うち農業が約20万人で32.1%、製造業は約17万人で27.3%、卸小売・サービス業は17万人弱で26.7%となっており、事業所別の従業者数では、繊維産業が67%で圧倒的に多いというのが特徴であった。

ロシア革命が労働運動に影響

 1917(大正6)年のロシアでの社会主義革命の勝利は、労働運動に大きな影響を与えた。1915(大正4)年4月に、舞鶴海軍工廠の労働者を中心に発足した友愛会京都支部は、当時約300人であったが、1917年2月に、奥村電機の労働者によって、友愛会京都第一支部が結成されたのにつづいて、日出新聞、京都織物などで分会が組織されて、友愛会は約1,200人の組合に発展、翌年1月には西陣支部も結成された。

 1918(大正7)年、富山からはじまった米騒動は、20日ほど後に、京都にも波及、京都市内では2万人をこえる人々が参加し、加佐、久世、乙訓、綴喜、相楽にも広がり、巨大なエネルギーを発揮した。そして、シベリア出兵の元凶である寺内内閣は米騒動の責任をとって総辞職においこまれた。翌年2月、友愛会主催の普通選挙期成労働者大会とデモには、約3千人の労働者、市民、学生が参加した。

ストライキや小作争議がふえる

 1919(大正8)年、友愛会は連合会を結成し、当時京都市内第一の近代工場であった奥村電機のストライキを指導するが、友愛会会長の鈴木文治の労資協調主義は労働者のきびしい糾弾にあい、労働者の相互扶助から労働組合の全国組織としての日本労働総同盟に発展していく動きも生まれた。

 このたたかいのなかで、京都の友愛会は、ほとんど崩壊するが、西陣支部は、織友会に改組し、「西陣労働者新聞」を発行した。こうしたなかで、辻井民之助、国領五一郎らの活動家が成長し、荒畑寒村、山川均、堺利彦、徳田球一らと連絡をとり、学習会をもち、しだいに科学的社会主義に接近していった。

 米騒動のあと、農村では、小作争議がふえはじめ、1922(大正11)年、京都では23件を数え、京都市内の労働運動や全国的な日本農民組合創立などの影響をうけて、しだいに、たたかいは組織的になっていった。

科学的社会主義を学んだ先覚者

 同年3月、全国水平社創立大会が岡崎公会堂でひらかれ、初代委員長には、京都千本の南梅吉が選ばれ、4月には、京都府水平社が創立された。支部も田中につづいて、市内各地域、相楽、綴喜、乙訓、天田、加佐の各郡に組織され、労働運動、農民運動とも結合した部落解放運動がすすんだ。

 こうしたなかで、京都の労働運動は、新しい盛り上がりを示し、清水焼の労働者により、同年6月、陶磁器従組が結成、つづいて京都電機工組合、合同労組、染物労組が結成された。総同盟京都連合会には、西陣の辻井民之助、国領五一郎、国領巳三郎、佐々木隆太郎、日新電機の奥村甚之助、大津幸次郎、陶磁器労働者の谷口善太郎などすぐれた指導者らが結集した。

 このような労働運動、農民運動、部落解放運動など大衆運動をたたかっていた先覚者たちが、荒畑ら中央の指導者たちと結びつき科学的社会主義を学び党をつくる条件をととのえたのである。

京都における最初の党建設―6人から出発した京都の党組織

 京都の党建設は、党創立の直前、荒畑寒村から辻井民之助に、「党結成にさいして、京都の信用できる労働者を推せんしてほしい」という連絡があってからである。そして、創立された党中央の指導をうけて辻井が中心となって組織し、京都の最初の党が建設された。

国領五一郎が京都の責任者に

 京都の最初の党員は、辻井民之助、国領五一郎、谷口善太郎、国領巳三郎、佐々木隆太郎、半谷玉三の6人であった。1923(大正12)年1月1日、辻井宅で京都の最初の党の会議がひらかれた。丹後出身の河田賢治は東京で入党した。

 党が創立されたことは、革命運動や労働運動に画期的な意義をもった。それまでの個々のグループから、党ができると、大衆のなかでの活動は、政治的、組織的なものとなり、京都の労働者と人民の闘争は質的に前進した。

 党ができて最初に迎えた11月7日のロシア革命記念日には、京都で初めて京都市内の大工場に革命を記念してビラがまかれ、その時辻井、国領らが検挙された。翌23(大正12)年6月、共産党への第一次弾圧があり、辻井はソ連へ亡命し、国領五一郎が京都の責任者となり、党の指導による労働組合の組織化がつづけられた。

 同年7月の奥村電機での3週間にわたる争議は、約370人を組織した京都電機工組合第三支部によってたたかわれ、地域の工場労働者との交流や、日新、島津その他の電機工場への働きかけがなされ、また、争議団の学習会をひらくなど、当時としては新しい闘争方針がうちだされた。

 この争議を通して、電機工組合の組織はしっかり確立され、年末には、電機工組合は700人に達した。捺染工組合200人、西陣、陶磁器の労組、支部からなる京都合同労組200人とともに総同盟京都連合会の主力組合をなした。翌24(大正13)年には、松風工業、京都ガス、京都燃料、大薮製材所などに労組支部が結成された。

活動家育てた京都労働学校

 創立された党は、労働者にたいする階級的教育活動をとくに重視した。22年の秋から冬にかけて非合法の「共産党宣言」の学習会が組織され、毎月定例茶話会という形の大衆的教育集会も総同盟各単位支部でおこなわれた。

 急速な組合拡大のなかで、より組織的な労働者教育の必要性から、24年4月、総同盟によって京都労働学校が設立された。校長には山本宣治、講師には住谷悦治、小田美奇穂、林要らがあたり、3年間で100人近い卒業生を出し、労働組合、農民運動、水平社などの幹部、活動家が育った。

党再建とその時期の活動―26年の第三回党大会で党を再建

 反動の嵐がつよまるなかで、1924(大正13)年の党解体の決定の誤りを正すために、コミンテルンと片山潜の指導と援助のもとに、党の再建がすすめられたが、京都では、国領兄弟、佐々木、谷口が再建に参加した。

京都に特高を配置し治安維持法適用

 1924(大正13)年2月の総同盟全国大会では、国領、谷口らが、本部提案の右翼的な大会宣言案を批判して、全面的に修正する宣言案を起草し、総同盟の階級的前進のために奮闘した。翌年4月、右翼幹部は戦闘的な30組合を一挙に除名、総同盟を分裂させたが、京都の全組合は左派として団結した。5月、日本労働組合評議会が結成され、ついで京都地方評議会がつくられ、階級的な労働組合を発展させた。

 京都の農民運動は、1924(大正13)年12月、日本農民組合の府連が結成された。府の小作争議は、23年33件、24年71件、25年113件と広がり、25年には、日農府連は59支部4千54人を組織し、25(大正14)年の地方選挙後には、組合員のなかに町議4人、村議72人、他に御牧村村長をも擁するにいたった。この年、南山城の佐山、御牧、美豆3村にまたがる大小作争議が起こり5ヵ月間にわたりたたかわれ、小作地への「立入禁止」をとかせ、小作料の減免などをかちとった。

 学園では、1922(大正11)年の三高の8日間のストライキを契機に、学問の自由をめざす運動は新しい高揚を迎えた。翌年の過激社会運動取締法などの3悪法反対闘争では、同志社大、京大、三高、大谷大、立命館大、薬専、高等蚕糸、高等工業の各学生団体は大阪と連絡、関西学生連盟を組織し、学連の指導のもとにたたかった。京大では、河上肇の影響のもとにあった淡徳三郎らの読書会が24年1月頃、社会科学研究会と改称され、25年末には約120人となり、この中から、岩田義道、黒木重徳、田代文久、清水省三、小林直衛、泉隆など有力な活動家が輩出された。同志社でも約50人の社研がつくられた。

 こうしたなかで東京についで京都に配置された特高警察により、1925年12月、京大生18人、同大生11人が検挙されたのをはじめ、翌年春にかけて「学連事件」といわれる一連の弾圧がおこなわれた。これは治安維持法適用の全国第一号事件となった。なお京大法学部教授会と経済学部6教授は、学問研究の自由擁護の立場から長文の意見書を発表し、広範な世論の支持を得た。

舞鶴海軍工廠にも党員が

 1926(大正15)年12月、第三回党大会で党が再建され、各地で党の新たな前進のいしずえがきずかれはじめた頃、京都では、国領が党関西地方委員、評議会中央常任委員として大阪に常駐するようになったため、党員は谷口善太郎、前川芳子、稲葉辰蔵の3人となった。しかし、党の周囲には労働学校卒業生を中心にレフトが組織され、山本宣治、河上肇などの知名人士も密接に協力し、労働組合、農民組合、労農党、学連などを通じて、京都での主要な大衆運動に指導的な影響をあたえた。

 1927(昭和2)年5月に、口丹での衆議院補欠選挙がおこなわれ、党は、労農党から出た山本宣治とともに、重要な選挙闘争の経験をした。

 「27年テーゼ」が伝えられると、京都の党組織は、大衆的共産党の建設にとりくみ、1ヵ月ほどの間に、労働学校卒業生、農民組合、学生から党員をむかえ、約30人となり、3つの細胞(支部)を組織し、舞鶴海軍工廠にも党員が生まれた。

初の総選挙で山宣当選

 1928(昭和3)年2月、非合法党機関紙「赤旗」(「せっき」)が創刊され、普選第一回の総選挙では、労農党の1区水谷長三郎(党非推薦)、2区山本宣治(党推薦)がともに当選した。これは山本を通じて党が国会に初めて進出した歴史的な意義をもつものであった。

弾圧に抗して不屈のたたかい―不死鳥のように……

暗殺された山宣たたえて党籍

 総選挙の結果、党と人民の前進をおそれた天皇制政府は、1928(昭和3)年3月15日、全国的に大弾圧を加え、京都でも谷口ら百余人が検挙され、うち31人が起訴され、党組織は破壊された。つづいて、労農党、評議会なども解散を命ぜられた。

 翌29(昭和4)年3月5日、前年、緊急勅令により最高刑が死刑にまで改悪された治安維持法に反対した山本代議士が暗殺された。党中央は死後、その栄誉をたたえて党籍を贈った。京都の労農各団体は、弾圧のなかで労農葬をおこない、多くの市民が葬列を見送り、プロキノ(プロレタリア映画同盟)の活動家は貴重な労農記録映画を残した。同年4月16日、再び大弾圧があり、京都では、泉隆ら26人が検挙され、うち3人が起訴され、大きな打撃をうけた。2回にわたる弾圧で経験をもった指導部をうばわれたことは、党と大衆運動の重大な損失となった。

 3.15事件で逮捕されていた谷口善太郎は、獄中で大喀血をおこし、瀕死の状態で出獄して、「責付出所」のもとで「日本労働組合評議会史」の執筆にかかり、以後、名作「綿」をはじめ多くのすぐれたプロレタリア文学作品を生みだした。

 河上肇らが提唱した合法政党としての新労農党が結成されると、京都支部は、旧評議会以来の活動家を結集して、大恐慌下での洛北友禅争議や京都市バス争議などをたたかった。研生学会のアルバイト学生の闘争などでは、田畑シゲシ、武藤守一らが結集した。また鐘紡大争議にも積極的にはたらきかけた。党が、新労農党の結成は前衛党を否定する解党主義、合法主義として批判したため、河上は新党を解消した。京都の労農各団体は、解消派、再建派に分裂し、いっそうの困難が生まれた。しかしこの党の批判は、進歩的な民主勢力の結集をさまたげるセクト主義的なコミンテルンの誤った決定によるものであった。解消派の活動家の多くは、京都無産者消費組合を結成した。32(昭和7)年には京都の6種の消費組合が大合同して、京都消費組合(能勢克男組合長)が結成され日本無産者消費組合連盟に加入した。これは、戦後に京都の生協運動へと受け継がれるものとなった。太田典礼、飯田三美、細見文治らの努力で、京都市左京区や福知山に無産診療所が開設された。これは戦後の民医連運動の源流となった。

 1931(昭和6)年1月、党中央が再建されると京都では、佐藤真民らの指導で6月、京都地方委員会が再建され、党勢拡大をすすめた。京都の党も「満州事変」の前後に繰り返し弾圧をうけるが、田畑らは組織拡大につとめ、日本電池、市電、国鉄、鐘紡、京大看護婦、杉本練染、洛北友禅工場地帯、大丸、新興キネマなどの経営や府下の南桑、天田、与謝、中、竹野、熊野などの農村にも組織を確立し、第16師団の各兵営への工作もおこなわれた。この時期の京都の党組織は、戦前最大に達した。しかし、32年9月3日前後の大弾圧で410人が検挙され、うち60人が起訴されて、党組織は破壊された。

 1931年9月、府会議員選挙に全国労農大衆党公認候補として下京区から立候補した津司市太郎は、「満州事変」が引き起こされた後も、全国労農大衆党中央の指示に抗して1人「帝国主義戦争反対」のスローガンをかかげつづけた。当選した津司は、同年11月27日の本会議で、満州出兵将兵への慰問電報を発送しようという緊急動議に反対、「戦争奨励の意味の慰問状発送には反対」「帝国主義戦争には絶対反対する」と演説した。

5千の学生が抗議…京大・滝川事件

 1933(昭和8)年4月、京大法学部教授、滝川幸辰(ゆきとき)教授の刑法学説を口実にした、学問の自由、大学の自治への弾圧事件、京大・滝川事件がおこった。法学部教授会の奮闘のなか学生の抗議は各学部にひろがり、6月6日の全学学生大会には5千人の学生が結集した。運動はさらに全国に拡大し「大学自由擁護連盟」が結成され、ファシズムに反対する知識人の運動にも影響をあたえた。たたかいは大学当局の屈服、警察の弾圧により敗北したが、戦後の大学自治確立の運動に受け継がれた。このなかで党は西村清三を中心に再建されたが、同年6月の弾圧で、党中央の指導のもとでおこなわれた京都の戦前の党活動はとだえた。1936(昭和11)年3月、細川三酉が責任者となって組織の再建をはかり、活動家の結集をすすめたが、同年12月5日の弾圧で破壊された。また、京都市、福知山での無産診療所、救援会、プロキノなどの文化活動が個々の活動家によってつづけられた。

 さらに、「京大・滝川事件」の体験から、反ファシズム闘争の必要を学んだ中井正一、新村猛、和田洋一らが1934(昭和9)年に創刊した「世界文化」や「土曜日」「学生評論」などの運動は弾圧のなかで残っていた活動家や進歩的人士たちを結集し、合理主義と人道主義の立場で、広く支持を集めた。「学生評論」は学生戦線の構築をめざした。コミンテルン第7回大会に参加した後、ひそかに帰国していた小林陽之助は、ねずまさしを通じて「世界文化」の運動と結びついた。とくに、ヨーロッパにおける反ファシズムの運動など統一戦線について国際的経験や教訓を伝えたことは、戦後の京都での民主運動への一つの条件を準備した。しかし、小林は、1937(昭和12)年11月、これらの活動に加えられた弾圧のなかで逮捕され、1942(昭和17)年2月23日、千葉刑務所で、34歳の若さで獄死した。

 1943(昭和18)年3月19日、京都の生んだすぐれた不屈の党指導者であった国領五一郎は、大阪堺刑務所で獄死した。40歳であった。戦後、1964年9月、左京区黒谷に碑が建てられ、毎年、国領祭として、山宣祭、河上祭、京都解放運動戦士の碑の慰霊祭とともに記念され、その革命的伝統を受け継ぎ、いっそう前進させる決意が新たにされている。

2005年7月25日掲載
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