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京都府委員会の紹介

5.90年代の党づくり

1990年代以降

 90年代初頭、党の建設にとって全党が歴史の大局的な流れに確信をもって活動することが求められました。

 92年参議院選挙にむけて12カ月の機関紙の増勢など党勢拡大の特別の努力とともに、学習・教育運動の強化がはかられ、9割以上の支部が手引きにもとづく基本課程学習に取り組み、4割の党員が修了しました。91年5月に開催された第三回中央委員会決定の読了者は3カ月で6割でした。

 94年9月に開かれた第52回京都府党会議は、「日本共産党の存在と活動が、政治革新を願う人々はもちろん、これまで保守的立場にたっていた人々をふくめて反国民的悪政に抗してよりよい生活を願うすべての人々にとってかけがえのないよりどころとなっている」ことを明らかにし、ここに誇りと確信をもって奮闘することを府党のすべての党組織によびかけました。

新たな躍進の時期をむかえ

 90年代なかば、党は新たな政治的躍進の時期をむかえました。この時期、「支部が主役」の活動を発展させるとともに、すべての支部が「政策と計画」をもって取り組もうとよびかけました。96年総選挙のたたかいでは、「党を語る4つの大運動」((1)比例のポスターはり出し、総選挙パンフの全戸配布と対話・支持拡大、(2)支部主催の演説会を無数に開く、(3)機関紙と党員の上げ潮のなかで選挙をむかえる、?党の資金の問題でも党を語り、大衆的に募金を訴える)がすすめられました。  97年2月におこなわれた第54回京都府党会議は、総選挙の躍進をうけて、今後の党派別選挙で府内全域で第一党をめざすこと、府北部と府南部での政党間の力関係を変えるたたかいに全力をあげることをよびかけました。そして京都府党の4つの挑戦として、(1)保守を含む幅広い共同、(2)京都での反共攻撃と反蜷川民主府政攻撃を撃破する、(3)労働戦線や青年学生戦線をはじめ各分野で革新・民主の地殻変動的な躍進をかちとる、?党活動と党建設におけるふきぬけるような前進を訴えました。この年におこなわれた立命館大学と京都大学での新入生アンケートで、日本共産党はいずれも16%~17%の支持を占め、抜群の第一位だったことをはじめ、府民と日本共産党の関係に新しい、大きな変化がつくられていきました。  党は、94年7月に開かれた第20回党大会から97年8月の第21回党大会の3年間に49%の支部で1,571名の入党者をむかえました。このように90年代前半までの停滞を打破する活動は徐々に強められていきました。同時に、日本共産党への期待と注目の大きな高まり、劇的な躍進の可能性に党勢が追いつかないのが実状でした。

党建設の立ち遅れの打開に正面から挑む

 90年代、党の政治的前進に比して党建設が立ち遅れ、その打開のための本格的な奮闘と研究が求められました。

 90年代全体として、京都の党員拡大は前半での停滞・後退をのりきり、中盤から前進が開始され、99年からはじまった青年支部の結成も力となって青年学生分野での党員拡大が2000年代には前進に転じるという経過をたどりました。一方、機関紙読者数では漸減傾向を克服できず、安定的な前進へ、今が正念場という局面にあります。また党の決定文書の読了率など90年代前半の到達から後退している側面も残されました。  大江町の党組織は90年代に一貫して党建設に力をそそぎ、党員数で126%となり、党支部は町になくてはならない存在として住民生活のすみずみで活躍し、1人ひとりの党員の初心を生かす活動が展開されてきました。こうした活動の結果、2001年参議院選挙で全国の自治体のなかで比例得票の有権者比率第一位となりました。  自民党は90年代全体を通じて大きくその政治的基盤を後退させました。京都の自民党は、これまで4万人を下回ることがなかった党員数を、98年4万1,730人から、99年3万3,226人、2000年3万2,481人、2001年2万5,172人へと激減させました。この自民党を公明党・創価学会が支えているのが現実の姿です。  98年知事選挙、参議院選挙の躍進を総括した98年11月の第57回府党会議は、「京都の党建設の歴史と教訓を今日的に学び生かす」ことを府党組織全体によびかけました。そこでは次のように述べられています。 「いま京都は、『しんぶん赤旗』読者の有権者比、人口比、地方政治の比重など、全国の最先端にあります。しかし、最初からそうだったわけではありません。75年前の1923年、わずか6人、谷口善太郎の思い出によれば『裸の電球が一つポツンと屋根裏からぶらさがっていた』西陣の民家の2階から党の活動がはじまったのです。戦後、数十人の党員で再建されたものの、60年安保闘争時の全国トップは東京でした。その後、党綱領を確立した61年の党大会にむけた党勢倍加運動では、すべての地区が党員倍加を達成し、『京都民報』を創刊するなど、60年代のたたかいを通じて日本1の到達をきずいたのです。農村の先進県であった長野県に見学調査に出向いたり、『職場に党員3割、日刊紙5割、日曜版8割を組織する』『3・5・8』の提起と奮闘、『日本の夜明けは京都から』『自民党を追い抜いて第一党へ』のスローガンでたゆみなく活動してきました。この力が、旧中選挙区の1区複数勝利をはじめ、国政・地方政治での前進、革新・民主の自治体をつくりだす政治的な陣地となりました。まさにこの党建設の前進こそ、70年代の党と革新運動の躍進を準備し、今日の発展の基礎をつくりだしたのです。…中略…新しい政治目標にいどむ我々は、この歴史から2つの教訓を学び、生かすことが大切です。第一に、その時々に党が直面する政治的責務に対応し、挑戦につぐ挑戦で、党建設を先駆的に切り開いてきたこと。第二に、大衆運動と党建設の総合的な前進、『現在』と『未来』の両方に責任を果たす立場で、うまずたゆまず党勢拡大を追求してきたことです。

2005年7月5日掲載
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