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京都府委員会の紹介

1部 京都府党のあゆみ(1980年代以降)

4.80年代の党づくり

1980年代

 日本共産党は戦後第二の反動攻勢に抗して、質量ともに強大な党づくりをすすめました。第15回党大会(1980年)から第16回党大会(1982年)の間に2,400人あまりの新しい入党者をむかえました。この入党者数は当時の京都の社会党や民社党の党員数を上回っていました。また、16回党大会成功をめざす拡大運動では、差し引き4万人あまりの読者を拡大しました。

 1987年洛南地区委員会が八幡・綴喜・相楽地域に1,000名の党員をきずいて、地区委員会を分割、山城地区委員会が誕生し、現在の15地区委員会となりました。

 機関紙活動では、読者拡大とともに、機関紙読者を減らさない定着活動の重要性を強調し、遅配・欠配の根絶、25日までの百%集金に取り組みました。さらに府党組織は京都独自に、すべての支部が読者台帳をもち、居住支部は必ず配達・集金状況を掌握し地域の機関紙活動に責任をもつこと、経営支部は配達・集金の可能な読者については自ら配達・集金を行うことを重視しました。

 この時期、京都府庁で職場新聞「灯台」、読者ニュース「D & D」(「読者と読者」)が発行され、現在まで20年以上にわたって、反動府政下の自治体労働者の交流と良心の灯火の役割を果たすようになっています。また少なくない民間大職場では、「かわら版」(島津)など、読者ニュース、職場新聞が継続して今日まで発行されるとともに、党員や後援会員が手分けして読者に「赤旗」「京都民報」を届ける活動がすすめられ、日本共産党の職場支部のよき伝統となっています。  党は84年の第40回府党会議で、日常活動の促進を党活動の一環として重視することを提起し、(1)草の根の運動とサークルづくり、(2)民主的大衆組織の拡大、(3)生活相談活動を推進しました。

党の質的建設を重視して

 80年代の党建設において、党大会決定と中央委員会諸決定の学習、新入党者教育をはじめとした制度教育などの学習・教育活動が、党員の自覚と活動水準を高め、全党員が参加する生き生きとした支部生活を確立する基礎として重視されました。80年5月に亀岡市内に学習会館を開設したこともその促進に大きな力となり、学生中級合宿や民間職場支部の学習会、女性活動家講座などが熱心にとりくまれました。その利用者は最初の10カ月だけでのべ3,000人にのぼりました。党躍進の3つのカギとして、(1)方針の徹底、(2)教育の徹底、(3)会議の民主的運営と規律が強調され、多くの地区委員会で、月初めの日曜日に1日かけた総会を開くなどの改善がはじまりました。支部を基礎にした活動の大切さが強調され、党大会の決定や中央委員会決定の機敏な討議・実践とともに、全党員にニュースや党報などを届けること、週1回の支部会議と全党員が意見をのべる支部会議の民主的運営への努力が強まりました。  中曽根内閣のもとで、警察や公安調査庁による党員へのスパイ工作が激増しました。また、社会的にひろく承認された言論活動を「犯罪」とした不当逮捕が頻発しただけでなく、労働組合、民主団体、日本共産党の事務所の不当な捜索・押収が強行されました。83年5月11日、「桃太郎宣伝」をしていた福知山市議など2人が不当逮捕され、中丹地区委員会事務所が捜索されたのもこのときでした。右翼暴力団による妨害や幹部を狙ったテロ行為から党と幹部を守る活動とともに、市民的政治的自由を守る活動の重要性も浮き彫りになりました。84年に開かれた第40回府党会議は、防衛問題を党機関だけでなく、全党がとりくむ課題であると提起しました。権力機関によるスパイ政策は今日にいたるまで執拗につづけられており、それらへの警戒はひきつづき重要な意義をもっています。

党勢の大台を維持しつつ、90年代へ

 国内での反動攻勢、旧ソ連・東欧の崩壊という世界的激動のもとでの反共の逆風は、党勢拡大に重大な困難をもたらし、80年をピークに党勢は漸減傾向をたどりました。  同時に世界的な逆風のもとでも、党が基本的に陣地をもちこたえたことはきわめて大きな意義をもちました。逆風のもと2万人の党の隊列の大台をもちこたえ、17万人の読者とともに激動の90年代をむかえました。
2005年5月23日掲載
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